静止した蝉の鳴く季節
「今年も蝉が鳴き始めた」
この季節になった途端、蝉が太陽の訪れを知らせるようになる。毎朝、毎朝、毎朝。こっちの生活リズムなんて蝉には関係ない。彼らの命はたった1週間なのだ。彼らは7日を、168時間を生きたら、ぽとりと木から落ちる。
朝の訪れを知らせるだけ知らせて。
眠れない夜を越えて蝉の声を聞いた日は、なんだか責められているような気分になる。
「どうせお前はこれから寝るんだろ?いいご身分だな。80年も生きられるんだもんな。そりゃあ1日くらい潰してもなんともないよな。みーんみんみんみん」
「蝉君はいいね。私たちは80年間、毎年君たちの声を聞き続ける。私は歳をとっていくのに、耳に入る音だけは変わらない。毎年だよ。蝉の声を聞くたびに、ゆらぐアスファルト、常緑樹についた朝露の匂い、膨れ上がって巨大化した雲、夕立の日に雨宿りしたあの子、肌を重ねたときの汗を思い出すんだよ。勘弁してよ」
地に足がついている気がしないのは暑さからくる貧血のせいか、それとも?
服を着るにも、どこに行くにも、電車に乗るにしても、とにかく全ての行為が物語の一部のように感じられてしょうがない。フィクションの世界に生きてる気分。現実世界の私は部屋で延々と寝ているか、とっくの昔に学校の屋上からスカイダイビングでもしてそうな、そんな気分になる。
入道雲は、私の背負う背景にしては壮大すぎる。
強い日差しは、全てを照らしすぎる。
蝉の声は、過去の記憶を引っ掻く。
「ねえ!未来の私!どんどん死が迫っているよ!元気にしてる!?えっとね、私はねえ、めっちゃ元気!」
なんて、高校時代の私の幻影がうるさいのだ。昔の私が勝手に今の私の目の前に現れて、急かされる。
夏は死の季節じゃない。でも、夏と死は相性がいい。
夏に死ねば、永遠の存在になれる気がする。私は消えない。蝉の声が、私のことを毎年思い出させるはずだ。入道雲の陰が、私の顔の形を作ったりするはずだ。
夏に死ねば、生きられる。
23歳はすぐそこだ。
真夏に生まれて、23年。
私の誕生日はイヤという程晴れて気温が上がるというのが毎年恒例だ。
ゆらぐアスファルト、入道雲、蝉の声、白くて古い病院のひび割れはよく目立っただろう。
そんな新宿区の病院の一室で私が生まれたのは朝の8時。
お母さんは、蝉が鳴き始めたのに気付いただろうか。
今年の夏初めてのセックスは、汗をかいて、息があがって、びっくりした。
汗が吸着剤になって、肌と肌がぴったりくっついて、粘るみたいなセックスをした。
「私たちは恥部をさらけ出してていいんじゃないか」
カーテンの隙間から朝日が差し込んで少し明るくなった部屋で、口を精液でいっぱいにしながら、ぼうっと思った。
こめかみに汗がつたった。冷房のタイマーが切れていたみたいだ。
仰向けに横たわる相手の細身な太ももの間に座り込み、ソフトクリームを舐める要領で柔らかくなったペニスを綺麗にした。
むっとする匂いだ。布団に、自分の髪に、部屋に、精液の匂いが籠っている。
髪をかきあげ、枕元のトイレットペーパーを引きちぎって口の中の粘液を吐き出す。
前回はあったゴミ箱が無い。聞くと、キッチンの脇に散乱したゴミ袋に直接捨てているらしい。
いくつかの鍋と、スプーン、コップ、箸、皿、タッパーがこれでもかとシンクに詰まったキッチンで煙草を吸った。
パーティでもしたのかと思うような量だったが、どうやら3、4日分の自炊の痕だ。梅干しの種とふりかけの袋がタッパーの中に貼り付いている。
28歳独身男性の夏は、どんな夏だろう。
「俺、一度も自分のこと頭良いと思った事ないよ」
28歳、散乱したゴミ袋、溜まった洗い物、枕元のトイレットペーパー、クローゼットから出てきたピンクの電動マッサージ機。
テレビの電源をオフにして、家を出た。
「弱」で回り続けるキッチンの換気扇はそのままで。
マンションを出れば世田谷区の慣れない駅……ここにもいつものあいつがいる。
夏。
夏の数と街の数を掛け合わせて、忘れられない思い出が増えていく。
思い出がふわふわしていて怖いから、身体に刻んでいく。
定期的に、ひとつ、ふたつ……いや、ひとり、ふたり
最中の男の目の黒さを思い出して、くだらないな、と心の中で吐き捨てる。
夏が始まるから。
今年も、いつもと同じように。
同じ時間が繰り返されるように。