東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

汝、自己の拡散を食い止めよ。

背中を梳くような浮遊感。

 

華々しい引退という形で、2年くらい与えられ続けた居場所を失った。居場所にとらわれることは辛くもあり幸せなことでもあると、改めて痛感する。


居場所を失った今もはや私が何者であるかは宙に浮き、所属も肩書きも一切無く、私は名前でしか定義されることのない存在になった。
それでも名前なんて記号は人の形を縁取るにはあまりに頼りなくて、つまるところ私はまたしても形を持たない存在になってしまった。輝く外枠を失ってしまった。今、私のイメージは身体をゆうにはみ出し、あちらこちらに散らばっている。何にも縛られないことは、自己が拡散して薄まってしまうことと同義だった。

 この前の夏に私は自分の二本の脚で立つことを思い出した。でも、それはこれまで組織におんぶにだっこになっていたことの証明でしかない。元々一人だったら自明の理のはずの、誰にでもわかるはずの簡単なことだ。と、組織を失った今、気づく。

 

縛られないということは、つまり自由だ。自由と同時に浮遊することでもある。浮遊しているということは、とても精神的コストがかかる状態だ。ここで自意識に支配されて周りが見えなくなるか、周りの目を気にしすぎて自分が消え失せるかはその人次第。でも、自意識と客観的視点をバランス良くもつことが至難の技であることは間違いない。
自意識と客観的視点のバランスを保ててやっと、人は大人になれるのではないかと思う。一人の人間として、二本の脚で立つ存在として社会に参画できるようになるのではないかと思う。

 

そんなことを思えば思うほど私は未熟だ。

凛とした女性になりたいのにarを買って、ちやほやされたいのに自分より美人の友達ばかりつくって、強くありたいのに頼れる人を捜してやっきになってしまう。

自分の欲望と行動が噛み合ない。

でも、それでもいいと思ってしまう自分がいる。甘えてしまう。だめだだめだと思っているのに評価されたり、親友がいたり、いいかんじの男性がいたり、「なんだ、これでも人生うまくいくじゃん」なんて思ってしまう。自分の芯なんてものを失えば、自分に嘘をつき続ければ、いくらでも人生を上手くまわすことができると知ってしまった。こんなことを続けていれば、最後に待つのは孤独だということを悟りながら。

 

最終的な孤独を避ける為に必要な「自分を持つ勇気」というのは、読んでないけど最近流行の「嫌われる勇気」と同じようなことなんじゃないか思う。全員から好かれようとすれば自己は薄まって「あなたしかいない!」みたいな大事にされ方はされなくなる。いくらでも代わりのいる存在になる。人によってはそれでもいいのかもしれない。インスタント食品みたいに、価値は感じられないけど生活には必要といえば必要みたいな存在であることが心底心地いい人もいるかもしれない。

でも、私は三ツ星フレンチでありたいのだ。なんならパリのエピキューレみたいに、前衛と伝統と優雅さと華やかさを兼ね備えた三ツ星フレンチでありたい。とっておきの存在でありたい。でも、でも、怖い。自分を出すことで人から逃げられるのが怖い。みんなから好かれたい。常に必要とされたい。ほんとうは、簡単には手の届かない高貴な女になりたいのに。そこまでする勇気がない。

 

こんなことを考えるのも、肩書きを失ったからだろう。後ろ盾がなくなった今、自分の見せ方を考えるのは自分しかいない。何にも定義されることのない自由が、自己責任の四文字を叩きつけてくる。

自分に対する責任から逃げることほど簡単なことはない。そう、人間万事塞翁が馬。なんとかなるだろう。でも、精神的に向上心のない者は馬鹿だ。常に努力して、泥臭くあがいて、人生を作品にしなければならないと、思うには思っている。

 

背中を震わせる浮遊感に負けてはいけない。安易に居場所を求めてはいけない。そうしなければ、向上はない。

光り輝く自分の縁取りを自分で作ること、それが今の目標であり、大人になろうとする私の使命だと思う。

 

理想は実現させるものよ、と、自分に言い聞かせる。

まだ、身体の中は喪失感でいっぱいだ。