東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

不幸中毒者の解説書

 

「居場所」。

 

不幸中毒者の人生を最高につまらなくさせる究極tipが「居場所」を手に入れることだって、今日、気づいた。

自分の存在が無条件に肯定される場、自分の「居場所」という概念。主に人生を平穏と安定に満ちた、起伏のないものにしたい人たちが探し続けているユートピアのことだ。

 

不幸中毒者はこの素晴らしき「居場所」を手に入れると、途端に人生をつまらなく感じるようになる。

  「そんなこととっくの昔に気づいたわ!」って不幸中毒者はかしこい不幸中毒者だ。私はさっきまで知らなかった。22歳にもなってやっと気づいたもんだから、もはや居場所どころじゃなく根こそぎ宙にぶん投げられてしまった。完全に後の祭りってやつだ。

 

 「居場所」が人類に与える平穏や安定が悪いことかって、そうじゃない。平穏や安定というのは世間一般にとっての幸せのカタチであって、求めてもなっっかなか手に入らない。むしろ世界の一部の恵まれた人が手に入れることのできる理想的な概念、だと私は思う。

じゃあなんでそれが人生をつまらなくさせるんだよ、って聞かれたら、私はすぐさまこう答える。

 

「決まってんだろ、それじゃ幸せだからだよ!」

 

 

 

そもそも、「幸せ」って言葉自体が広義的すぎる。

よく「あなたにとっての幸せを大事にしてください」なんていうけれど、そんなことを言われるような人は、そもそも自分にとっての幸せのカタチがぼんやりしている。だからどうしていいのか皆目見当がつかない。自分が何を大事にすれば「幸せ」と感じるのかわからない。そのくせ自分の「不幸」に対しては、人一倍敏感だったりする。だから、「ああ、今、私悲しいんだわ!絶望!未来が無い!ひとりぼっち!だれも私の味方じゃない!」

なんて突然思い始める。

そして慰めてくれる人を手っ取り早く獲得しようとして近しい異性と体の関係を持ち、ヤリ捨てられ、「ああ、やっぱり私は不幸だわ!」の無限ループに陥る。

 

上の例で考えれば、不幸(孤独)と幸福(肉体的融合)のアップダウンの快楽に頭をやられてしまっている。

 

不幸中毒者にとっての「幸せ」は「不幸」に彩られた日常だからこそ存在する。なおかつ「幸せ」と「不幸せ」のギャップはアルコールなんかよりもずっと激しいから、「幸せ」の快楽は一種の麻薬のようなキモチさなのだ。

だから、不幸中毒者に安定した「幸せ」なんてものは存在しない。私たちにとって「幸せ」とは、あくまで「不幸」な日常を時折彩る刹那的な存在でしかない。

 

 

ようするに、不幸中毒者にとって「幸せ」は相対的に存在するもので、絶対的なものではありえない。

 

 

不幸中毒者は「幸せ」を探す名目で居場所を求めてさまようけれど、それは結局のところさまよい続けるという「不幸」状態でありたいだけであって、「居場所」なんてものは見つけちゃいけない。「居場所」は永遠にユートピアでなければならない。見つけてしまったらオワリだ。不幸中毒者に「居場所」なんてものを与えれば、むしろ半恒久的な不幸に陥ってしまう。

だからもしあなたのそばに不幸中毒者がいるのであれば、手を差し伸べておくよりもそっとしておくのが懸命だ。