東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

ドルヲタと付き合ったと思ったら戦場に立っていた

生まれてこのかた芸能人に興味がない私にこの度アイドルヲタの恋人ができた。

恋人(男性)はとある元アイドルを熱心に崇拝している。彼はその元アイドルのことを自分のミューズだという。ミューズ、活力や創造力の源、崇拝の対象。私の恋人のミューズは1年前に引退した某アイドルだ。彼の部屋にはその元アイドルのポスターが貼られ(このポスターはせっかくの部屋の統一感を著しく損ねている)その対岸にはこれまた彼女の写真集がうやうやしく配置されている。その壁と垂直に設置されたデスクトップPCの待ち受け画面もその元アイドル。つまり私は一歩彼の部屋に足を踏み入れた途端三方向から某元アイドルの視線を浴びるわけである。ある夜彼はそのアイドルがかつて所属したグループのMVをおよそ2時間に渡って唯一某アイドルからの視線を逃れることができる壁全体に投影した。購入したてのプロジェクターから鮮明に映し出されるアイドルたち。閑静な住宅街の中心にぽつりと建つ築何年とも知らぬ木造アパート。蛍光灯を嫌う彼の部屋はもとから暗い。そんな頼りない明かりすら完全に消された部屋のスピーカーから流れる大音量がアパートを揺らした。垂れ流されるMVは照明の代わりになるほどの明るさで小さな部屋を支配した。彼女の視線から逃れられる場所が消失した。完全に包囲された。普段は口数少ないはずの彼はかつてないほど饒舌になった。感想とも解説ともつかない知識はライフル弾の如し。私の鼓膜は大音量のアイドルソングと同時に彼の言葉を拾い上げ即座に脳まで伝達しなければならかった。

そんな中、懐かしい感覚を思い出した。私も昔は夢中になった作品の良さを人に伝えたくて饒舌になったものだと思った。熱く、性急に、目を輝かせて。彼のように。

 

この元アイドルの一体何が彼をそこまで熱くさせるのかと思った。元アイドルは元アイドル、たとえ握手会があったとしても大したコミュニケーションがとれたわけじゃない。自分が嫉妬する相手ではないことはわかっている。それでも嫉妬心を完全に消すことはできなかった。容姿ならまだ諦められる。ミューズは美人で有名なアイドルで私はふつうの一般人だ。しかし「頭の良さ」や「性格」について言及されると苦しかった。私はただの一般人。既に容姿で勝るアイドルに凡人の私が勝負できる部分なんてそれこそ「頭の良さ」や「性格」くらいしかない。その可能性をその”ミューズ”は根こそぎかっさらっていった。彼曰く彼女は「完璧」なのだ。

ドルヲタが把握できるアイドルの「頭の良さ」や「性格」なんて表面的なものでしかない、勝手にわかったふりをしてるだけだと非ドルヲタは言ってくれるかもしれない。しかしその勝手な理解こそが敵なのだ。たとえそれが本当に表面的な部分だけの理解だったとしてもドルヲタはその表面を信じている。ミューズともなればそれは信仰だ。私の恋人はその元アイドルの「頭の良さ」や「性格」を信じきっている。

 

「私はこの元アイドルと比較されるのではないか」

包囲された中でおびただしい数の銃弾を浴びながら、そんな不安が私の中で頭をもたげた。

彼のミューズは既に芸能界を引退した。これ以上彼女にまつわるあらゆる事柄が白日のもとに晒されることはないだろう。一方私はこれから彼と時間を重ねていくはずの身であり今後あらゆる仮面が剥がれていくことは言うまでもない。彼のミューズに対するイメージは一生美しいままだというのに私はこれからどんどん汚いところを彼の前で晒していく。どう考えたって戦況が圧倒的に不利だ。あの元アイドルは美しいまま彼の前から姿を消した。そして彼は彼女の当時の美しさを今も変わることなく信仰しているのだ。

 

彼に活力を与えるのはその元アイドル、彼に創造力を与えるのもその元アイドル。じゃあ一体私はなんなんだ。私は何か彼のミューズに勝てているんだろうか。ミューズと恋人は本質的に別物である、それはわかる。それでもふと思ってしまう。私とミューズを比較したとき、私には彼の「側にいられる」というアピールポイントしかないただのミューズの下位互換なんじゃないか。私の存在が彼に活力や創造力を与えているという自信はまだ持てていない。

 

彼のミューズが憎いわけではない。邪魔だというわけでもない。ただ羨ましいのだ。彼の心の深い部分に触れる彼女が羨ましい。今やこの目で見ることもできない同世代の女性が近くにいる私よりも彼の心に棲んでいる。今も彼を鼓舞している。私はこんなに近くにいるのに、彼を鼓舞できているのかどうかわからない。だからこそ羨ましい。

 

彼にファンをやめろと言う気はない。壁のポスターを剥がしてほしいわけでもない。デスクトップを変えてほしいと提案する予定もない。彼の気持ちもわかるからだ。触れることのできない好きなものに囲まれたい気持ちも、それによって気力が湧く感覚もわかる。そういった存在は人が生きる上でとても大事だし現実の恋人とは全く別のカテゴリー、戦う相手ではないと過去の自分が教えてくれる。

それでも嫉妬してしまう。彼の気持ちの一部が他の女性に向けられている上に自分はその女性にわかりやすく勝てる部分も持ち合わせていない。「この人に追いつかなきゃ」、そんなことを思ってしまう自分は本当にどうかしていると思う。それでも心の靄が晴れない。

 

私は凡人で私の恋人は一般人。それなのに私の嫉妬の相手は美しい印象のまま引退した元アイドル。こんな不毛な戦いはない。それでも私は嫉妬してしまう。戦おうとしてしまう。少しでも自信をつけたい。自分をもっと好きでありたい。こんな不毛な戦いなんて考えもつかないようなそんな自分に、なれるだろうか。