東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

受けいれられること、そして許されること

去年一昨年の2年間、自分は世間から許されない人間だと思っていた。

これまでの記事でさんざん醸したような受け入れてほしい欲求なんてものは結局筋違いで、私は「世間様から到底許される存在ではない」とはなから諦めていたしなんなら”許されない存在”であり続けようとしていた。人間誰しも自己肯定なしでは生きていけないもので、誰からも受け入れられない=今の世間から許されていないだけ=自分は今の世間を否定する新たな存在だ、なんて歪んだ認知のもとに2年も生きていた。なんて恥ずかしいことだ。私はそこらに溢れ漂う凡人たちの一人に過ぎないというのに。

受け入れてほしいより前に許されたかったのだ。今までの行いを、これまでの人生を、過去の行動すべてから成り立つ今の自分を肯定されたかった。11月末まで恋人だった人からは何も許されなかったというか、私が何も知らせなかった。それまでの行動が「許されざること」だと思っていたからこそ好きな人の前では過去の行いを必死に隠していた。その結果どうなったかなんてことは別れている時点で明白で、薄っぺらい表面だけを肯定されても敵意しか湧いてこなかった。嘘をついて作り上げた体裁を肯定されることは隠している本当の自分を否定されることと同義だからだ。

どうすればカワイイ女だと思われるかなんて多少の脳と経験があればわかる。ただし頭で考えたことを自分に投影したところでそんなものはとってつけでしかなく、全く本当の自分じゃない。しかも悲しいことに人間20代も半ばになれば他人の嘘やとってつけは見抜けるようになるものだ。見抜けない男なんてただのナルシストなバカでしかない。この事実を見落としていたことが私の2年間の敗因だった。

過去は消せない、だからといって無理して矯正して生きようと思っても性格はそう簡単に治らない。

だから見つけるしかなかったのだ。許されざる行いを許してくれるような人を。対人関係はきっと、受け入れの後に許しがある。私が発した言葉をそのままの意味で解釈して非難してくるような人間はそもそも私を受け入れてすらいないのだ。受け入れと許しの間にも壁がある。許したら、それは友情を越えてしまう。

今でも愛なんてものは信じていない。恋愛中毒者が語る「愛っぽいもの」は全てただの熱病だ。愛はイデアだ。人間ごときが形を把握し言語化できる類の概念ではない。だから存在しない。他人が愛なんてものを語り始めたらそれは描写の手間を省いているだけだと思っていい。

それでも打算で恋愛をすることはすすめない。人間は皆他者から受け入れられ、許されてもいいはずだからだ。

そして許しは往々にして友情を越えてしまう。