東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

23回目のクリスマスイヴと初めての男

クリスマスのない12月なんて、想像するだけで幸福すぎる。

年末年始のただ晴れやかな、オレンジ色のめでたい温もりに満ちた季節であってくれてあればそれでよかった。久しぶりに顔を合わす人たちと一年を振り返る日々だけであれば幸福だった。それなのにクリスマスといったらまるで恋人のいない市民を非難するような趣で、正直ただの脅迫である。

その脅迫に負けた私は23回目のクリスマスイヴの朝をそりゃもう、全くよく知らない男性と過ごした。彼と初めてまともに話したのだって日付も変わっていよいよクリスマスイヴというところだった。そしてその数時間後、私は彼の家でくつろぎながら恥の概念などとうの昔に捨て去ったかのように自分のことを滔々と語るのだ。私の話はほぼ暴力だった。ただ吐き出したいことを一方的に語る、そんなふうだった。

楽をしたいと思った。テキーラをあおった頭でもわかる、今朝の私はどんなに醜い女だったろう。

 

彼は魅力的な存在だった。少なくとも魅力的な男性と一夜を過ごせたことは悪くないことだということはわかる。それなのに後悔の念が襲ってやまない。似たようなことが今まで何度もあった。これは相手が魅力的だったからこその後悔だ。どうでもよい相手になら抱かない念だ。私は少なからず(唯一ではないにしろ)彼に対して好意を抱いていた。好意を抱く相手に都合よくされるというのはあまり気持ちのいいことではないと1年ぶりに再確認した。

ただどれだけ私が彼に都合良く扱われたとしてもセックスの準備など何もしていない、すっぴんで頭が痛むほど酔った自分を抱いてくれたというのは彼の優しさに他ならず、なんとも申し訳ない気分になった。そんなバッドコンディションのまま抱かれてしまった私はもはややけくそである。どうせ、どうせ、という思いからめちゃくちゃに甘えた。自分でも理性もクソもないと思うほど甘えた。それが23回目のクリスマスイヴの昼である。

 

私はどれだけ成長したのだろう。心を入れ替えるつもりで全くできていない。セックスしないためにあえて何の気合もいれなかったというのにそんなときに限って欲望に勝てない。

努力が足りない。我慢が足りない。こんな精神性では、幸せを掴む日は遠い。わかっている。簡単に股を開く女に価値はない。わかっている。彼は魅力的だった。魅力的な彼の前で醜態を晒し自らの価値を落とす愚かさが憎い。

こわな後悔の念で包まれたクリスマスイヴなんて慰めようがない。

一体私は何度虚しいクリスマスを過ごせば気がすむのだろう。どれだけ痛い目を見れば懲りるのだろう。現在進行形で寂しさに負け続け、二本の脚で立つと決めたあの夏の自分はどこに消えたのだろう。

 

最近、「元気?」と聞かれても「元気」と答えられなくなった。

何かを変えなければいけない。このままではいけないという焦燥感。この2年、ろくなことがなかった。根本的・致命的な原因はきっと自分に自信がないこと。今も昔も変わらないこと。

 

昨日の彼が言っていた。

「人はみんな心に穴を持っている。その穴は百発百中親に空けられたもので自分にも他の誰にも埋められるものではない。対人関係を上手く行かせるためには、その穴を認め、上手く付き合っていかなきゃいけない」

 

親に空けられた穴をぼんやりと眺め、この穴をいつか共有できる相手が欲しいと思った。埋めなくてもいい。穴を認め合えればそれでいい。それだけでいいんだ。必死で穴を隠して強く取り繕った自分をいくら評価されたところで穴の底は広まるばかりなんだ。だから、

 

「深淵を覗くとき、深淵もまたーー」

 

だれか覗いてよ。覗いてくれるだけでいいんだ。心の穴によりそって、なんて贅沢なこと、贅沢すぎること、言わないから。

 

 

また彼と過ごすことはあるのだろうか。わからない。なにしろ私のコンディションは最悪だったのだから。