東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

「思い出」は寂しさを埋めるためにある

思い切り笑う45歳になりたい。

心の底から、大口開いて、自分の人生を讃歌して笑いたい。

 

 

 

Kate Hudson - Cinema Italiano - Nine - 720p HD - YouTube

 

映画版NINEは映画としては微妙かもしれないが、ショー映像としては極上だ。

そして私はこのリンク先のような、バリキャリで、かつ女の楽しみを忘れていない、こーゆー45歳を迎えたいのだ。

最高にイケてるクライアントと二人、バーで大胆に背中の開いたドレスを着て、ショットをあおりながら煙草をばんばん吸っているような。こんな45歳になりたいのだ。

そして向かい風を受けながら、大口を開けて笑ってやる。自分の幸せを、自分の手の内で転がしてやる。

もはや手に入らないものは何も無い。イケてる男の花弁をちぎっていじけさせる、それくらいの長い爪を持っている。そんな女になりたい。

 

それでもふと、鏡が光る。男性の前には出られないような寝間着姿の、孤独にパソコンを叩く就活生が映る。現実。

この部屋でひとり。わたしはわたしの部屋でひとり。iPhoneの画面はお休み中で、LINEもTwitterも、なんの通知も鳴ることのない深夜1:40。

こんな夜は、背骨辺りがスカスカしたような気になる。背骨をどっかに落としてきたみたいに。頭の中ではそっぽを向く目がいくつも浮かんで、次々消える。

 

現状、わたしは皆のOne of Themにすぎない。私の背骨になろうなんて殊勝な人は、現時点においてはいない。「現時点においては」なんて言うのも、この孤独がいつか過ぎ去るものだと信じているから。だって私はまだ22。タラレバ娘になるにはあと10年ある。そう、あと10年。その10年の間に、きっと、きっと、誰か……。

 

これまでの10年、何人の男が過ぎ去っていっただろう。たとえたった一瞬だとしても、私の心を揺らした男たち。数えきれない。数えきれないほどの男たちが、私の心を揺らして去った。ビーズみたいな男たち。安っぽいプラスチックの、色とりどりの、キラキラ反射する思い出が散らばっている。

 

現状、私に好きな人はいない。できないと言った方が正しいのか。失恋の傷がまだかさぶただから。あのときの恐怖を思い出して、傷つくことがなによりも怖い。好きになるのが怖い。人の好意を素直に信じられない。そうしてもごもごしているうちに、また、一人一人と去っていく。

 

去られた思い出を反芻するのは心地いい。治癒した傷は「若かりし日の思い出」として昇華される。あの頃の自分を「カワイイなあ」なんて思いながら反芻することができる。直近の失恋に関しては、記憶すら戻ってこないくせに。

 

愛されていた若き日の自分を思い出して、現状の寂しさを埋めようとする。

「本当は寂しい思いなんてする女じゃないの」なんて励ましを一人で繰り返す。

 

ばからしい。ばからしいけど、寂しさを見つめるよりは、ずっと平常心でいられるから。

 

明日も元気な顔をするために、幸せな顔をするために、平常心を保とうとする。

台風の目の中にいようとする。

そうでもしなければ寂しさの暴風雨は今にも私をふきとばし、身体はバラバラのグチャグチャになってしまうから。

 

10年の間に、私は価値を失っただろうか。いや、失ったものは価値じゃない。

それじゃあ、失ったものは何なんだろう。

素直さ?愚直さ?いや、違う。

 

私が失ったもの、それは「無知」だ。

 

行く末が或る程度想像できるようになってしまった以上、今までみたいに「結果オーライ!」とはいかない。でも手のひらで転がすこともできない。

「無知」でもないし「熟知」しているわけでもない。

この狭間、22歳、狭間にいるから、上手くいかない。

1人で立てる。2本の足で歩ける。でも、しゃがむことができないのだ。

求めているものは、安心して腰掛ける為の背骨。

 

いつになったら、背中の空洞は埋まるだろう?