東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

綺麗な言葉で隠すこと --いい女/男--

肩が震えて、朝の空気がやってくる。

 

ポリエステル生地のブランケットに羽毛布団を重ねて、一晩中取り合いをする。暖房がタイマー通りに切れる。

誰と掛け布団を取り合う夜を過ごそうが、せめてブランケットだけでも私に譲ってくれよと思う。譲ってくれる男は「いい男」だと思う。冬の乾燥した空気の中、ベッドサイドにタオルを干しておいてくれる男性は「いい男」だと思う。

そんなことを思いながら、水っぽい鼻をむずむずさせる。朝のまだ静かな喫茶店で、くしゃみが濁った熱を持ってこみあげる。一年の半分くらいは風邪を引いているんじゃないかと思う。指先が嫌な冷え方をしている。昨日の夜はこうなることを覚悟しながら、大事な取引を控えた社会人に布団を譲ってやったのだと思う。

 

社会人からしてみれば、大学生なんて毎日が休日だそうだ。私立文系大学生の私が倒れたところで責任事項は起こりえないし、収入が無くなるなんてこともない。なんなら単位だってなんとかなる。

だからこそ目覚ましが鳴ったら自分がどんなに眠かろうが相手を起こし、出社を見送ることが私の仕事だ。社会人の朝は1限に出席するよりも早い、なんて現実を体感するのはもうちょっと遅くてもよかったかもしれない。寝不足で酸欠の頭を抱えながら、みかんを剥きつつしばしまどろむ。聞くところによると、朝ちゃんと起きて男性を起こすことのできる女性は「いい女」だそうだ。男性の言う「いい女」と「都合のいい女」の違いはなんだろう。そもそもそこに違いはあるのだろうか。ついでに言うと、男性の言う「モテる女」と「軽そうな女」の違いも、私にはわからない。

 

そういえば以前、周りの男性に「いい女ってどんな女?」と聞き回ったことがある。結局得られたほぼ全ての回答が「人による」だった。私が質問した男性陣は或る程度客観的視点をもち、帰納的に定義付けするくらいの頭があり、言語化できる人たちだ。私には彼らが濁しているようにしか見えなかった。濁しの裏にはなにやら後ろめたいことがあると勘ぐってしまうのは私が懐疑的というよりも、人の性だと信じたい。

そうして濁され隠された彼らの本音には、彼ら自身のプライドを傷つけるような「わがまま」や「甘え」の要素が含まれているのだろうと思う。思うばかりで、それ以上の追求はしないけれど。

 それは女も同じだろう。自分の「わがまま」や「甘え」に付き合ってくれる人のことを「いい男」に分類するんじゃないか。自分のことを気遣ってくれる、自分にとって快適な環境を作ってくれる、自尊心をくすぐるようないい気持ちにさせてくれる。「男は金」論だって、その論を提唱するような女性をいい気持ちにさせるにはそれなりのお金が必要という、ただそれだけの話なんじゃないか。

 

そう考えると、「幸せにしてくれる」や、「愛されている」なんていうのも、単に「自分の『甘え』『わがまま』につきあってくれる」ことの綺麗な言い換えでしかない。「幸せ」やら「愛」やら、そんなもの、非現実的なイデアでしかないじゃないか。綺麗な言葉で汚さをラッピングして、見てみぬふりをして、素知らぬ顔でクリスマスムードの街を闊歩するのだ。

「いい女」「いい男」なんて、溢れるほどのコラムで書かれているような倫理道徳的に正しい人のことじゃない。コラムで書かれているような「いい女/男」なんて、同性から見たときの理想的な生き方モデルでしかない。異性から見たときの「いい女/男」は、二番目の存在になりがちな都合のいい優しい人間か、そろばんをはじくように損得勘定をして、自分の利益不利益を天秤にかけながら振る舞っている人間だろう。

 

恋愛は、資本主義社会で生きる人間の最後の砦なんかじゃない。恋愛はむしろ、社会を生き抜く力バトルの決勝戦だ。

現実的にならなければいけないことから目を背け、逃げて、恋愛を「ロマンティックなもの」にするのはもうやめにしないか。把握しきれない複雑怪奇な事柄を高尚なものへと昇華して、思考を止めるのはもうやめないか。人を踏みつけて得た「勝利」を「幸せ」と言い換えるのは、もうやめないか。

 

 

 

あなたがその綺麗な包み紙を開けたとき、出てくる中身はなんですか。