不幸になりたければ酒を飲め
酔った頭で何かを決めたらそれは大抵間違いだ。
二日酔いの重い頭で相手の怒った顔を見る。「ああ、終わった」という乾いた絶望感。酔っていた頃が嘘みたいに、いやに冷静になる時間。まだ太陽の昇らない冬の朝五時の、ナイフみたいな風が頬を切りつける。
あたたかい家から追い出された孤独がうずうずする。なぜか心が満たされていく。
「大切な人に迷惑をかけた、今日も私は不幸だ」
人を人とも思わない自分勝手さ、人の迷惑で快感を得るねじまがった根性。吐き気がするほど気持ちの悪い自分の生き方に、どこか安心する。
幸せでいるときは不安だ。シーソーをこいでいるような気分。いつ砂利にたたきつけられるのか分からない、不安定な幸福の均衡。それなら最初から尻餅をついていればいい。そうすれば、ショッキングな痛みを感じることは無い。
自ら不幸を選択することによって想定外の不幸から逃げ続ける。心の中で泣き続ける。棚ぼた的な不幸のダメージを軽減させるために。
幸せをつかむには、度胸が必要だ。この決断によって精神が壊れてもいい、それくらいの覚悟がないと幸せにはなれない。
あたたかい帰る場所があること、居場所があること、頼れる人がいること、認めてくれる人がいること、金銭的余裕があること。世間一般の幸せの条件なんて簡単だ。パパっと箇条書きできてしまうようなことでしかない。だからそんな条件すら満たせない自分に言い訳をする。「私は不幸でいたいだけ」。
でも、そんなことを言ったところで、本当はそんなわけがない。幸せになりたい。幸せで満たされたい。喉から手が出るほど幸せを欲している。そう、ひたすら、どん欲に。アドレナリンが過剰分泌されるような「幸せ」が欲しい。幸せになりたい。幸せになりたい!
それでも私は逃げ続ける。酒に溺れて誤った判断を下す。駄目だとわかっていながら酔いの勢いにまかせて手足を動かす。そしてもはや修復不可能な関係にノスタルジーを感じつつ、後悔することしかできない自分が生まれる。
この後悔の痛みだって、1週間もすれば忘れるだろう。それくらい東京の時間は早いし、あらゆる出来事で満ちているし、常に何かに追われているのだ。
大切なものを失ったとき、気づくのはその軽さでしかない。
愛する人を失っても死ななかった。
大切にしてくれる人を裏切っても死ななかった。
大きな責任を放棄しても死ななかった。
そうして私は、今日ものうのうと生きている。
できれば!何の保証もない人生で、いつ何が消えるか分からない東京という街で、渋谷の喫煙所くらいには惜しまれたい。
できれば!誰かに信頼されて、肯定されて、それから……。
そんなエゴの塊をかかえながら、人に迷惑をかけつづけて生きていく。心の中で涙を流しながら。心の涙は血管を通って全身に渡り、アルコールとほどよく混じって、私を夜の街へと向かわせる。
すべての重みが失われていく東京で、なにか1つ、大切なものができたとしたら。
心から信じれるものができたとしたら、もう幸福を疑わなくてもよくなるのかもしれない。
それでも私は間違うのだろう。人に迷惑をかけるのだろう。幸せが欲しいと、他力本願な叫びをアスファルトに響かせながら。ニコニコ笑って、酒をあおる。束の間の安らぎを求めて、大切なものの軽さを忘れるために。そして今日も、間違うのだろう。
酒は不幸への近道だ。自分を不幸にさせたければ、不幸になれたければ酒を飲もう。
酒を飲んだあとに一人になれば、もう、不幸へはあと一歩だ。
グッド•モーニング•シガレッツ
私は起き抜けに煙草を吸う。
iphoneの「アラーム」の文字、窓の向こうの白い光とシーツにおちた陰をまだ霞んだ目で眺める。そしてあたたかい毛布の砦で一度筋肉を引っ張る伸びをして、ライターの火をつける。
百合が開ききったような形のガラスの灰皿に灰を落とす。口の中が香ばしくて苦い。みるみるうちに頭は酸欠でぼうっとしてきて、もう一度布団に潜り込みたくなる。その気持ちをぐっとこらえ、ヘアアイロンの温度を160℃に設定する。
毎晩アルコールシートで拭く部屋のフローリングが光っていること、縁のない全身鏡のまなざしが相変わらず冷淡なことを確認してから薄紫色のガウンをベッドの上に脱ぎ捨てる。それから体重計が表示する数値を確認して、今日の生活リズムを組み立てる。ようするに食事を摂るか摂らないかの話だ。
コーヒーと煙草があれば栄養摂取目的以外の食事はいらない。食欲は咀嚼の快感を忘れればなくすことができる。ティファールのスイッチを入れてお湯をわかし、海外産サプリメントをながしこむ。いつもの朝ご飯。白湯に1つまみの抗酸化塩を入れると、煙草と良い相性になる。
朝ご飯だけじゃない。食事の時間をとるよりも、一人でコーヒーを飲みながら煙草の煙をくゆらすほうがずっと良い。死に向かう身体を感じることができる。自分の先には100%死が待っている。この時がずっと続く、なんてことはない。22歳の若さも、あるいは老いも、人生において通り過ぎるべきポイントの1つであることを特に近頃は痛感する。人間である以上今の場所に留まることは不可能だ。人間は毎日死に向かっているのだということを自分に言い聞かせる場所、それが昼時の喫茶店だ。
周りが食事を摂る中一人でコーヒーを飲む時の、胃を締め付けるような空腹感は神経を鋭敏にさせる。
目に映る世界がビビットな色彩とシャープな輪郭をもつ。あらゆるノイズがひとつひとつ明確になる。ありとあらゆるごまかしのきかない世界になる。コートの毛玉がやたらめったらしゃくに障る。心臓の音、血液が脈と共に循環するのを感じる。今日も私の身体は一所懸命に私を生かしている。ご苦労なことだ。
安っぽいプラスチック製の小さな灰皿。私が火をつければ煙草は煙を吐く。私の思い通り、なんて思っていたら、いつのまにか煙草なしでは生活出来ない身体にされていた。私の人生は大体こんなことばかりだ。
死までのカウントダウンとごまかしのきかない世界の孤独は私の背筋を伸ばし、目を覚まさせる。現実が突如立ち現れる瞬間。夢の中から現実世界への強制送還装置。
「おはよう。とりあえず、一服」
眩しい黄色の煙草の箱を、今日もゴミ箱に押し込んだ。
不幸中毒者の解説書
「居場所」。
不幸中毒者の人生を最高につまらなくさせる究極tipが「居場所」を手に入れることだって、今日、気づいた。
自分の存在が無条件に肯定される場、自分の「居場所」という概念。主に人生を平穏と安定に満ちた、起伏のないものにしたい人たちが探し続けているユートピアのことだ。
不幸中毒者はこの素晴らしき「居場所」を手に入れると、途端に人生をつまらなく感じるようになる。
「そんなこととっくの昔に気づいたわ!」って不幸中毒者はかしこい不幸中毒者だ。私はさっきまで知らなかった。22歳にもなってやっと気づいたもんだから、もはや居場所どころじゃなく根こそぎ宙にぶん投げられてしまった。完全に後の祭りってやつだ。
「居場所」が人類に与える平穏や安定が悪いことかって、そうじゃない。平穏や安定というのは世間一般にとっての幸せのカタチであって、求めてもなっっかなか手に入らない。むしろ世界の一部の恵まれた人が手に入れることのできる理想的な概念、だと私は思う。
じゃあなんでそれが人生をつまらなくさせるんだよ、って聞かれたら、私はすぐさまこう答える。
「決まってんだろ、それじゃ幸せだからだよ!」
そもそも、「幸せ」って言葉自体が広義的すぎる。
よく「あなたにとっての幸せを大事にしてください」なんていうけれど、そんなことを言われるような人は、そもそも自分にとっての幸せのカタチがぼんやりしている。だからどうしていいのか皆目見当がつかない。自分が何を大事にすれば「幸せ」と感じるのかわからない。そのくせ自分の「不幸」に対しては、人一倍敏感だったりする。だから、「ああ、今、私悲しいんだわ!絶望!未来が無い!ひとりぼっち!だれも私の味方じゃない!」
なんて突然思い始める。
そして慰めてくれる人を手っ取り早く獲得しようとして近しい異性と体の関係を持ち、ヤリ捨てられ、「ああ、やっぱり私は不幸だわ!」の無限ループに陥る。
上の例で考えれば、不幸(孤独)と幸福(肉体的融合)のアップダウンの快楽に頭をやられてしまっている。
不幸中毒者にとっての「幸せ」は「不幸」に彩られた日常だからこそ存在する。なおかつ「幸せ」と「不幸せ」のギャップはアルコールなんかよりもずっと激しいから、「幸せ」の快楽は一種の麻薬のようなキモチさなのだ。
だから、不幸中毒者に安定した「幸せ」なんてものは存在しない。私たちにとって「幸せ」とは、あくまで「不幸」な日常を時折彩る刹那的な存在でしかない。
ようするに、不幸中毒者にとって「幸せ」は相対的に存在するもので、絶対的なものではありえない。
不幸中毒者は「幸せ」を探す名目で居場所を求めてさまようけれど、それは結局のところさまよい続けるという「不幸」状態でありたいだけであって、「居場所」なんてものは見つけちゃいけない。「居場所」は永遠にユートピアでなければならない。見つけてしまったらオワリだ。不幸中毒者に「居場所」なんてものを与えれば、むしろ半恒久的な不幸に陥ってしまう。
だからもしあなたのそばに不幸中毒者がいるのであれば、手を差し伸べておくよりもそっとしておくのが懸命だ。