東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

ドルヲタと付き合ったと思ったら戦場に立っていた

生まれてこのかた芸能人に興味がない私にこの度アイドルヲタの恋人ができた。

恋人(男性)はとある元アイドルを熱心に崇拝している。彼はその元アイドルのことを自分のミューズだという。ミューズ、活力や創造力の源、崇拝の対象。私の恋人のミューズは1年前に引退した某アイドルだ。彼の部屋にはその元アイドルのポスターが貼られ(このポスターはせっかくの部屋の統一感を著しく損ねている)その対岸にはこれまた彼女の写真集がうやうやしく配置されている。その壁と垂直に設置されたデスクトップPCの待ち受け画面もその元アイドル。つまり私は一歩彼の部屋に足を踏み入れた途端三方向から某元アイドルの視線を浴びるわけである。ある夜彼はそのアイドルがかつて所属したグループのMVをおよそ2時間に渡って唯一某アイドルからの視線を逃れることができる壁全体に投影した。購入したてのプロジェクターから鮮明に映し出されるアイドルたち。閑静な住宅街の中心にぽつりと建つ築何年とも知らぬ木造アパート。蛍光灯を嫌う彼の部屋はもとから暗い。そんな頼りない明かりすら完全に消された部屋のスピーカーから流れる大音量がアパートを揺らした。垂れ流されるMVは照明の代わりになるほどの明るさで小さな部屋を支配した。彼女の視線から逃れられる場所が消失した。完全に包囲された。普段は口数少ないはずの彼はかつてないほど饒舌になった。感想とも解説ともつかない知識はライフル弾の如し。私の鼓膜は大音量のアイドルソングと同時に彼の言葉を拾い上げ即座に脳まで伝達しなければならかった。

そんな中、懐かしい感覚を思い出した。私も昔は夢中になった作品の良さを人に伝えたくて饒舌になったものだと思った。熱く、性急に、目を輝かせて。彼のように。

 

この元アイドルの一体何が彼をそこまで熱くさせるのかと思った。元アイドルは元アイドル、たとえ握手会があったとしても大したコミュニケーションがとれたわけじゃない。自分が嫉妬する相手ではないことはわかっている。それでも嫉妬心を完全に消すことはできなかった。容姿ならまだ諦められる。ミューズは美人で有名なアイドルで私はふつうの一般人だ。しかし「頭の良さ」や「性格」について言及されると苦しかった。私はただの一般人。既に容姿で勝るアイドルに凡人の私が勝負できる部分なんてそれこそ「頭の良さ」や「性格」くらいしかない。その可能性をその”ミューズ”は根こそぎかっさらっていった。彼曰く彼女は「完璧」なのだ。

ドルヲタが把握できるアイドルの「頭の良さ」や「性格」なんて表面的なものでしかない、勝手にわかったふりをしてるだけだと非ドルヲタは言ってくれるかもしれない。しかしその勝手な理解こそが敵なのだ。たとえそれが本当に表面的な部分だけの理解だったとしてもドルヲタはその表面を信じている。ミューズともなればそれは信仰だ。私の恋人はその元アイドルの「頭の良さ」や「性格」を信じきっている。

 

「私はこの元アイドルと比較されるのではないか」

包囲された中でおびただしい数の銃弾を浴びながら、そんな不安が私の中で頭をもたげた。

彼のミューズは既に芸能界を引退した。これ以上彼女にまつわるあらゆる事柄が白日のもとに晒されることはないだろう。一方私はこれから彼と時間を重ねていくはずの身であり今後あらゆる仮面が剥がれていくことは言うまでもない。彼のミューズに対するイメージは一生美しいままだというのに私はこれからどんどん汚いところを彼の前で晒していく。どう考えたって戦況が圧倒的に不利だ。あの元アイドルは美しいまま彼の前から姿を消した。そして彼は彼女の当時の美しさを今も変わることなく信仰しているのだ。

 

彼に活力を与えるのはその元アイドル、彼に創造力を与えるのもその元アイドル。じゃあ一体私はなんなんだ。私は何か彼のミューズに勝てているんだろうか。ミューズと恋人は本質的に別物である、それはわかる。それでもふと思ってしまう。私とミューズを比較したとき、私には彼の「側にいられる」というアピールポイントしかないただのミューズの下位互換なんじゃないか。私の存在が彼に活力や創造力を与えているという自信はまだ持てていない。

 

彼のミューズが憎いわけではない。邪魔だというわけでもない。ただ羨ましいのだ。彼の心の深い部分に触れる彼女が羨ましい。今やこの目で見ることもできない同世代の女性が近くにいる私よりも彼の心に棲んでいる。今も彼を鼓舞している。私はこんなに近くにいるのに、彼を鼓舞できているのかどうかわからない。だからこそ羨ましい。

 

彼にファンをやめろと言う気はない。壁のポスターを剥がしてほしいわけでもない。デスクトップを変えてほしいと提案する予定もない。彼の気持ちもわかるからだ。触れることのできない好きなものに囲まれたい気持ちも、それによって気力が湧く感覚もわかる。そういった存在は人が生きる上でとても大事だし現実の恋人とは全く別のカテゴリー、戦う相手ではないと過去の自分が教えてくれる。

それでも嫉妬してしまう。彼の気持ちの一部が他の女性に向けられている上に自分はその女性にわかりやすく勝てる部分も持ち合わせていない。「この人に追いつかなきゃ」、そんなことを思ってしまう自分は本当にどうかしていると思う。それでも心の靄が晴れない。

 

私は凡人で私の恋人は一般人。それなのに私の嫉妬の相手は美しい印象のまま引退した元アイドル。こんな不毛な戦いはない。それでも私は嫉妬してしまう。戦おうとしてしまう。少しでも自信をつけたい。自分をもっと好きでありたい。こんな不毛な戦いなんて考えもつかないようなそんな自分に、なれるだろうか。

受けいれられること、そして許されること

去年一昨年の2年間、自分は世間から許されない人間だと思っていた。

これまでの記事でさんざん醸したような受け入れてほしい欲求なんてものは結局筋違いで、私は「世間様から到底許される存在ではない」とはなから諦めていたしなんなら”許されない存在”であり続けようとしていた。人間誰しも自己肯定なしでは生きていけないもので、誰からも受け入れられない=今の世間から許されていないだけ=自分は今の世間を否定する新たな存在だ、なんて歪んだ認知のもとに2年も生きていた。なんて恥ずかしいことだ。私はそこらに溢れ漂う凡人たちの一人に過ぎないというのに。

受け入れてほしいより前に許されたかったのだ。今までの行いを、これまでの人生を、過去の行動すべてから成り立つ今の自分を肯定されたかった。11月末まで恋人だった人からは何も許されなかったというか、私が何も知らせなかった。それまでの行動が「許されざること」だと思っていたからこそ好きな人の前では過去の行いを必死に隠していた。その結果どうなったかなんてことは別れている時点で明白で、薄っぺらい表面だけを肯定されても敵意しか湧いてこなかった。嘘をついて作り上げた体裁を肯定されることは隠している本当の自分を否定されることと同義だからだ。

どうすればカワイイ女だと思われるかなんて多少の脳と経験があればわかる。ただし頭で考えたことを自分に投影したところでそんなものはとってつけでしかなく、全く本当の自分じゃない。しかも悲しいことに人間20代も半ばになれば他人の嘘やとってつけは見抜けるようになるものだ。見抜けない男なんてただのナルシストなバカでしかない。この事実を見落としていたことが私の2年間の敗因だった。

過去は消せない、だからといって無理して矯正して生きようと思っても性格はそう簡単に治らない。

だから見つけるしかなかったのだ。許されざる行いを許してくれるような人を。対人関係はきっと、受け入れの後に許しがある。私が発した言葉をそのままの意味で解釈して非難してくるような人間はそもそも私を受け入れてすらいないのだ。受け入れと許しの間にも壁がある。許したら、それは友情を越えてしまう。

今でも愛なんてものは信じていない。恋愛中毒者が語る「愛っぽいもの」は全てただの熱病だ。愛はイデアだ。人間ごときが形を把握し言語化できる類の概念ではない。だから存在しない。他人が愛なんてものを語り始めたらそれは描写の手間を省いているだけだと思っていい。

それでも打算で恋愛をすることはすすめない。人間は皆他者から受け入れられ、許されてもいいはずだからだ。

そして許しは往々にして友情を越えてしまう。

2017年6月の日記「わたしが22だったころ」

デートの日が待ち遠しくて怖くって、5人のセックスフレンドのうち2人と立て続けに寝た。普段しないことはするものではなく私のあそこはひりひり痛んだ。

 1人目、28歳IT系。は虫類系売れっ子俳優に似た顔をしたセクシーな声の持ち主だ。背はそこまで高くないしお腹は少しでてきたところか、しかし相変わらず細身で色白だった。アメリカンスピリットの愛好者で隙あらば吸っている。煙で満ちたキッチンとクーラーのきいたワンルームを新築らしい一枚のドアが仕切っている彼の家。隙間から漏れる煙草の匂いが薄く広がる部屋の中で私は一人掛け布団の匂いを嗅いでいた。決して良い香りじゃない、シャワーで汗を流さないまま何度か潜ったであろう匂いがする。セックスの汗の匂いでもなかったので今はそこまで頻繁に女と寝てないのだろうか、枕元のトイレットペーパーはティッシュの代わりにしてはよく溶けるから精液を拭くにも適していない。

 2人目、30歳広告代理店。就職活動中にOB訪問をした人だ。背は170ちょいのえらがはったニキビ痕の残る肌。お世辞にもイケメンとは言いがたいが笑うと優しくなる細いつり目がちょっとカワイイ。下心が透けて見えやすい人で「あ、この人今褒めてほしいんだな」みたいなことがすぐにわかる。傷つくポイントもわかりやすいものだからついいじめてしまいたくなる。8歳も年上の大企業の社会人をおちょくる楽しさは筆舌に尽くしがたいもので、ちょっと考えたら私が小学校1年生の時に彼は中学2年生なのだ。そんな人と体液をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせながら抱き合ってると思うと年下女の身としては愉快でしかない。

 セックスの相手を観察して愉快がっているのが私で22歳女子大生を無料で何の苦労もなく抱けることに男としての魅力を再確認するのが相手。今後もそれくらいのわかりやすい関係であり続けたい。頭に疑問符を浮かべる余地もない関係が理想だ。それでも、時々迷子になる。

 なぜ、5歳以上も年下の私を抱くのか?

 若いから?女子大生だから?もしかして私がちょっとばかりかわいいからだろうか?

 天狗になってはいけない。ただの餌だと思って食いついてきたのは間違いない。私のことなんて「スグ抱ける女」としか思ってないだろう。

 

 でも、それなら私も同じなのだ。私の大事な「スグ抱いてくれる男」たち。LINE一本で今夜の相手が捕まるこの社会。

「えっちしたいな……」

 送信。

 それだけ。

 彼らは別段魅力的なわけじゃない。最低限のホスピタリティとフットワークの軽さがあって、人として尊敬できるところが少しある。ベッドのお供にはそれくらいのスペックで充分だ。

 

 そして、そうじゃない男。私がセックスなしのデートをする男。つき合いたいのはこっちだ。それなのにセックスざんまいの日々を送ってきたせいで今更プラトニックラブを展開する方法がさっぱりわからない。自業自得といえばそれまでだが、気休めに心理学の本なんかを読んだりしてしまう。

 

 骨、筋肉、肉の隆起。ストロボを当てたときの骨盤に沿った陰影、白く発光する肌。「ああ、生き物だ」と思う。隠さなくちゃいけないのか。一糸まとわぬ姿は他のどんな姿よりも生き生きとしているのに。22歳、水を弾いてやまない肌を晒さずにはいられない。はじけんばかりの弾力と、くすみの無いきめこまやかな肌を所有しているのは今だけだ。

 私が怖いのは老いることではない。しぼんでいくことだ。できないことを知り、越えることのできない壁を目視し、少しばかりの絶望を経験しつつ肉体を使い古していくうちに心も肉体もしぼんでいく。熱い無鉄砲さを疎んじるようになる。致し方なく了見をわきまえるようになった自分の正当化のために、自由を謳歌する人を馬鹿にするようになる。

 みんな自分の正当化に必死だ。「自分の生き様こそ美しい」と思えなければ

世間一般の幸せを掴むことができない世の中だから。いくら多様性多様性と声を上げても「幸せの条件」にはある程度普遍性がある。生存から逆行することが「幸せ」として市民権を得てしまえば社会が上手く機能しなくだろうし少なくとも私が生きているうちは「幸せの条件」が大きく変わることはない。となると私も、22年積み上げてきた自分の歩みを肯定するほかないのだ。

 マウンティングや格付け、ヒエラルキーといった人間関係上の息苦しさは自己をなんとかして肯定する人たちの押し付けあいからできている。自己肯定には他者からの客観的賞賛も必要なのだ。100%主観的な自己肯定ができないことが世界にはびこる息苦しい人間関係を作り上げている。

 主観と客観の諍いにはもう疲れた。斯くなる上は主観を充実させるしかなくそうなるとセックスは最高だ。唯一無二の私の身体、私の知覚だけが知りうる快感は誰とも比べようがない。性の世界には、基準の無い主観の世界が広がっている。

 ただし2017年を生きるセックス好きの女子大生にとって、一番の興味が「セックス」だとを公言するのはリスキーな行為だという自覚がある。大切なセックスパートナーを失いかねない。だから私は今すぐにでも結婚したい。中々解消できない関係のパートナーをつくり、相手の理解を得た上でセックスに対する興味を公言したい。社会をそう簡単に変えられないからこそ、社会を少しばかり利用させていただきたいと思う。

 22歳、この身体を晒したい。この筋肉の躍動を、湿った肌を、一番美しい今一瞬を人目に晒して一番興奮してほしい。全身全霊のセックスを身に感じたい。そして誰とも比べようのない、自分だけが得る快感に飲みこまれたい。

 

 

23回目のクリスマスイヴと初めての男

クリスマスのない12月なんて、想像するだけで幸福すぎる。

年末年始のただ晴れやかな、オレンジ色のめでたい温もりに満ちた季節であってくれてあればそれでよかった。久しぶりに顔を合わす人たちと一年を振り返る日々だけであれば幸福だった。それなのにクリスマスといったらまるで恋人のいない市民を非難するような趣で、正直ただの脅迫である。

その脅迫に負けた私は23回目のクリスマスイヴの朝をそりゃもう、全くよく知らない男性と過ごした。彼と初めてまともに話したのだって日付も変わっていよいよクリスマスイヴというところだった。そしてその数時間後、私は彼の家でくつろぎながら恥の概念などとうの昔に捨て去ったかのように自分のことを滔々と語るのだ。私の話はほぼ暴力だった。ただ吐き出したいことを一方的に語る、そんなふうだった。

楽をしたいと思った。テキーラをあおった頭でもわかる、今朝の私はどんなに醜い女だったろう。

 

彼は魅力的な存在だった。少なくとも魅力的な男性と一夜を過ごせたことは悪くないことだということはわかる。それなのに後悔の念が襲ってやまない。似たようなことが今まで何度もあった。これは相手が魅力的だったからこその後悔だ。どうでもよい相手になら抱かない念だ。私は少なからず(唯一ではないにしろ)彼に対して好意を抱いていた。好意を抱く相手に都合よくされるというのはあまり気持ちのいいことではないと1年ぶりに再確認した。

ただどれだけ私が彼に都合良く扱われたとしてもセックスの準備など何もしていない、すっぴんで頭が痛むほど酔った自分を抱いてくれたというのは彼の優しさに他ならず、なんとも申し訳ない気分になった。そんなバッドコンディションのまま抱かれてしまった私はもはややけくそである。どうせ、どうせ、という思いからめちゃくちゃに甘えた。自分でも理性もクソもないと思うほど甘えた。それが23回目のクリスマスイヴの昼である。

 

私はどれだけ成長したのだろう。心を入れ替えるつもりで全くできていない。セックスしないためにあえて何の気合もいれなかったというのにそんなときに限って欲望に勝てない。

努力が足りない。我慢が足りない。こんな精神性では、幸せを掴む日は遠い。わかっている。簡単に股を開く女に価値はない。わかっている。彼は魅力的だった。魅力的な彼の前で醜態を晒し自らの価値を落とす愚かさが憎い。

こわな後悔の念で包まれたクリスマスイヴなんて慰めようがない。

一体私は何度虚しいクリスマスを過ごせば気がすむのだろう。どれだけ痛い目を見れば懲りるのだろう。現在進行形で寂しさに負け続け、二本の脚で立つと決めたあの夏の自分はどこに消えたのだろう。

 

最近、「元気?」と聞かれても「元気」と答えられなくなった。

何かを変えなければいけない。このままではいけないという焦燥感。この2年、ろくなことがなかった。根本的・致命的な原因はきっと自分に自信がないこと。今も昔も変わらないこと。

 

昨日の彼が言っていた。

「人はみんな心に穴を持っている。その穴は百発百中親に空けられたもので自分にも他の誰にも埋められるものではない。対人関係を上手く行かせるためには、その穴を認め、上手く付き合っていかなきゃいけない」

 

親に空けられた穴をぼんやりと眺め、この穴をいつか共有できる相手が欲しいと思った。埋めなくてもいい。穴を認め合えればそれでいい。それだけでいいんだ。必死で穴を隠して強く取り繕った自分をいくら評価されたところで穴の底は広まるばかりなんだ。だから、

 

「深淵を覗くとき、深淵もまたーー」

 

だれか覗いてよ。覗いてくれるだけでいいんだ。心の穴によりそって、なんて贅沢なこと、贅沢すぎること、言わないから。

 

 

また彼と過ごすことはあるのだろうか。わからない。なにしろ私のコンディションは最悪だったのだから。

 

もう勝手にしやがれ、甘い蜜には毒がある。

1度に3つの性病に罹った。

3つといってもどれもよくあるもので、正直HIVや梅毒みたいに深刻なものがないのが救いだ。

性病に一度かかると2週間はセックスができない。セックスどころかオナニーすら叶わない。これは深刻な問題だ。これでいて結構本気で頭を抱えているのだ。

かさむ医療費、息は潜めれど一生身体に残るウイルス、なんとなく後ろめたい気持ち、エトセトラエトセトラ。もし不妊にでもなったら家系図が私で止まってしまうことも不安の一つ。私は戸籍上一人っ子で従兄弟もいない。

私が産まねば途切れてしまう。今日日のツイッターは子育てがさも地獄のように取り上げられられるけど私の運命にそんな地獄が待ち構えていると思うと本当に勘弁してほしい。赤ちゃんの夜泣きなんてまっぴらごめんだし働いていたい。フル稼働で変化し続ける社会の渦の中にいたい。家で薄暗い昼下がりを赤子の泣き声と共に迎えたくなどない。

でも子どもが欲しくないわけじゃない。自らの血を分けた新しい生命なんてなんと神秘的で美しいことかと思う。出産は、人間、しかも女に産まれた私が起こせる唯一の奇跡だ。奇跡を起こしたいと思う。そして不確実で不安定な未来を繋ぎたいと心の底から思う。

 それでも人生においての全ての悦び、頭を蕩かす甘い密には毒がある。

セックスを愛する若い女体に病気が潜みつづけるみたいに、奇跡が産む新たな生命がすべからく原罪を抱えるみたいに、そこらかしこに毒がある。もちろん毒は棘を持って隠れている。まどろみの中に身を潜めている。蜜が甘ければ甘いほど隠れるカーテンは厚く、棘は黒く鋭く、毒の蝕みは順調快調爽快だ。

 

チョコレートも、恋も、セックスも、社会的地位も、睡眠も、出産も

歯に毒を、心に毒を、子宮に毒を、経験に毒を、筋肉に毒を、原罪に毒をもって私の頭を蕩かしてくる。

 甘い蜜には毒がある。

毒を食らわば皿までというし、せっかくだから不幸も全部自分から積極的に舐め尽くして無限のまどろみに惑わされたい。

たしかに死までのルーティンワークから私たちは逃れられない。でも、あえて逃げずに快楽をむさぼる事はできる。

まどろみを取って毒をも食らうか、無味乾燥な人生を送るかは、

もう「勝手にしやがれ」!

 

大丈夫、性病にかかってもなにがあっても人間簡単には死ねないんだよ。

お願いだからモテたくない

モテ系女性誌の意味がわからない。

不特定多数にモテることは私にとってまぎれも無い不幸だ。

好きになる可能性の無い人からのデートからのお誘いその他アプローチに類する事柄全てに嫌悪感を抱く。正直吐き気すらもよおす。

悪い人ではない、傷つけていい相手じゃない。だからこそ嫌だ。そんな人を無碍に扱いたくはない。

モテることは無碍に扱う人数を増やすことだ。

気のない人からアプローチをかけられるくらいなら、いもしない彼氏がいる体を装った方がまだマシだ。

それなのに不特定多数モテを標榜する女性誌が人気でありつづけるのは、好きになった人を的確に狙い落とすためなのだろうか。それともマジョリティはそんな不特定多数モテを求めているのだろうか。もしくは、好きになった唯一人を落とす為に多くの人の気持ちにゴメンナサイしなければならないのが社会の摂理なのだろうか。

そんなのって、そんな社会なんて、あまりに不幸すぎる。

 

多くの人とやりとりをして、多くの人とデートする。好きじゃない人に親切にされればされるほど自分が「悪い人間」のように思えてくる。私はその親切に応えることができない。対価を提供できない。私は人の心を弄ぶ「悪い人間」だ、という罪悪感にかられる。

努力は報われなければならない、と思うからこそ。自分のモットーを自分で否定するからこそ苦しい。自分のモテ嫌悪の理由がここまでわかってしまうと「私はただの自己愛のかたまりだ」とさらなる自己嫌悪に襲われる。

 

だから不特定多数から好かれることが幸せだと思えない。返せない好意は自己嫌悪を誘発する。

モテたくない。

モテればモテるほど、辛くなる。

恋心とは恐ろしいもので、好意を向けてくれる相手に自分をネガキャンしたところで中々冷めてくれるものではない。一度好きになられたら終わりなのだ。というかむしろ、ネガキャンをすればするほど好きになられる気すらする。

 

好かれたいのは私が好きになった人からだけだ。

でも、世の中そんなふうにできてない。モテる人は不特定多数からも好意を向けられ、モテない人は好きな人に振り向いてもらえないなんてことが殆どだ。

 

人工知能だかなんだか知らないが、上手くそのへんをどうにかしてくれないものか。誰かを好きになりそうな段階で「○○さんがあなたのことを好きになる可能性は○%です」とか教えてくれはしないものか。それで不特定多数からのアプローチが無くなれば、少なくとも私は幸せになる。

 

人には他者を好きになるかどうかのボーダーラインがある。そして、自分のボーダーを把握しきっている人は少ないと思う。恋のボーダー総合点で定まるもので、婚活のように細かく条件付けできるものではない。それを越えない人は、どんなに頑張られても無理なのだ。総合点の問題なので、どこを改善してくれれば……とかじゃない。どんなに頑張られても好きになれないのだ。

 

好きな人を振り向かせるための方策として、欠点を補う意味での「人から嫌われない条件」を身につけることが有効だとしても、取ってつけるタイプの「モテ要素」なんてものはまるで意味が無い。

「モテ要素」を身につけたところで相手が見ているものは総合点。言い換えれば「要素のバランス」だ。取ってつけた「モテ要素」が相手にクリティカルヒットすることなんて、20代後半にもなればまず無いだろう。

 

また、世間的にモテると思われる社会的強者の人が相手に求めるものほど定型化しづらい。

たとえば「年収は低くてもいいが楽しく話せるくらいの頭の良さは必要」とか、「自分とは別の専門に秀でている」とか、「容姿が優れていればいい」「家庭的であること」とか。持てる者が要求する事柄は千差万別だ。女性の社会進出が進んだ現代において、もはや3高3低とかの”鉄板モテカゴライズ”はどんどん形骸化が進む。持たざる者を狙うのであればまだしろ、持てる者を狙う人にとって不特定多数向けの「モテ作戦」なんてものは無駄であり、雑魚モテ誘発剤でしかない。メディアや広告代理店が発信するモテ要素を真に受けてはいけない。

 恋愛はマッチングだ。好きになる人に振られ続けているなら、好きになる人のレベルが自分と釣り合っていない事実を噛み締めてレベルアップに励むしかない。

レベルが同等なのに上手く行かないなら相性が悪い。相性の悪い人とつき合ったところで幸せになどなれないのだから、自分の未来が暗くならないための天啓だと思った方がいい。次に出会う人が最上の幸せをもたらすよ、という天啓の可能性もある。

 

モテ系女性誌の意味がわからない。

婚活に焦るアラサー世代未満対象の女性誌で雑魚モテテクを発信する意味が分からない。

好きな人を振り向かせる為に一般的なモテテクなんてものは何の役にも立たない。

それなのに、どうしてモテテクを求める人がいるのか。

人の気持ちを無碍に扱うことが快感なのだろうか。

 

その気持ちはわからない。

私はきっとこれからも、不器用ながらもありのままの自分で勝負していくのだと思う。

いつかきっと、好きになった人が私のことを好きになる日が来ると信じて。

静止した蝉の鳴く季節

 

「今年も蝉が鳴き始めた」

 

 

この季節になった途端、蝉が太陽の訪れを知らせるようになる。毎朝、毎朝、毎朝。こっちの生活リズムなんて蝉には関係ない。彼らの命はたった1週間なのだ。彼らは7日を、168時間を生きたら、ぽとりと木から落ちる。

 

朝の訪れを知らせるだけ知らせて。

 

眠れない夜を越えて蝉の声を聞いた日は、なんだか責められているような気分になる。

「どうせお前はこれから寝るんだろ?いいご身分だな。80年も生きられるんだもんな。そりゃあ1日くらい潰してもなんともないよな。みーんみんみんみん」

 

「蝉君はいいね。私たちは80年間、毎年君たちの声を聞き続ける。私は歳をとっていくのに、耳に入る音だけは変わらない。毎年だよ。蝉の声を聞くたびに、ゆらぐアスファルト、常緑樹についた朝露の匂い、膨れ上がって巨大化した雲、夕立の日に雨宿りしたあの子、肌を重ねたときの汗を思い出すんだよ。勘弁してよ」

 

地に足がついている気がしないのは暑さからくる貧血のせいか、それとも?

服を着るにも、どこに行くにも、電車に乗るにしても、とにかく全ての行為が物語の一部のように感じられてしょうがない。フィクションの世界に生きてる気分。現実世界の私は部屋で延々と寝ているか、とっくの昔に学校の屋上からスカイダイビングでもしてそうな、そんな気分になる。

 

入道雲は、私の背負う背景にしては壮大すぎる。

強い日差しは、全てを照らしすぎる。

蝉の声は、過去の記憶を引っ掻く。

 

「ねえ!未来の私!どんどん死が迫っているよ!元気にしてる!?えっとね、私はねえ、めっちゃ元気!」

なんて、高校時代の私の幻影がうるさいのだ。昔の私が勝手に今の私の目の前に現れて、急かされる。

 

夏は死の季節じゃない。でも、夏と死は相性がいい。

夏に死ねば、永遠の存在になれる気がする。私は消えない。蝉の声が、私のことを毎年思い出させるはずだ。入道雲の陰が、私の顔の形を作ったりするはずだ。

 

夏に死ねば、生きられる。

 

 

23歳はすぐそこだ。

真夏に生まれて、23年。

私の誕生日はイヤという程晴れて気温が上がるというのが毎年恒例だ。

ゆらぐアスファルト、入道雲、蝉の声、白くて古い病院のひび割れはよく目立っただろう。

そんな新宿区の病院の一室で私が生まれたのは朝の8時。

お母さんは、蝉が鳴き始めたのに気付いただろうか。

 

 

 

今年の夏初めてのセックスは、汗をかいて、息があがって、びっくりした。

汗が吸着剤になって、肌と肌がぴったりくっついて、粘るみたいなセックスをした。

「私たちは恥部をさらけ出してていいんじゃないか」

カーテンの隙間から朝日が差し込んで少し明るくなった部屋で、口を精液でいっぱいにしながら、ぼうっと思った。

こめかみに汗がつたった。冷房のタイマーが切れていたみたいだ。

仰向けに横たわる相手の細身な太ももの間に座り込み、ソフトクリームを舐める要領で柔らかくなったペニスを綺麗にした。

むっとする匂いだ。布団に、自分の髪に、部屋に、精液の匂いが籠っている。

髪をかきあげ、枕元のトイレットペーパーを引きちぎって口の中の粘液を吐き出す。

前回はあったゴミ箱が無い。聞くと、キッチンの脇に散乱したゴミ袋に直接捨てているらしい。

 

いくつかの鍋と、スプーン、コップ、箸、皿、タッパーがこれでもかとシンクに詰まったキッチンで煙草を吸った。

パーティでもしたのかと思うような量だったが、どうやら3、4日分の自炊の痕だ。梅干しの種とふりかけの袋がタッパーの中に貼り付いている。

 

28歳独身男性の夏は、どんな夏だろう。

 

「俺、一度も自分のこと頭良いと思った事ないよ」

 

28歳、散乱したゴミ袋、溜まった洗い物、枕元のトイレットペーパー、クローゼットから出てきたピンクの電動マッサージ機。

 

 

テレビの電源をオフにして、家を出た。

「弱」で回り続けるキッチンの換気扇はそのままで。

マンションを出れば世田谷区の慣れない駅……ここにもいつものあいつがいる。

夏。

 

 

夏の数と街の数を掛け合わせて、忘れられない思い出が増えていく。

 

思い出がふわふわしていて怖いから、身体に刻んでいく。

定期的に、ひとつ、ふたつ……いや、ひとり、ふたり

 

 

最中の男の目の黒さを思い出して、くだらないな、と心の中で吐き捨てる。

 

 

 

夏が始まるから。

今年も、いつもと同じように。

同じ時間が繰り返されるように。