東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

静止した蝉の鳴く季節

 

「今年も蝉が鳴き始めた」

 

 

この季節になった途端、蝉が太陽の訪れを知らせるようになる。毎朝、毎朝、毎朝。こっちの生活リズムなんて蝉には関係ない。彼らの命はたった1週間なのだ。彼らは7日を、168時間を生きたら、ぽとりと木から落ちる。

 

朝の訪れを知らせるだけ知らせて。

 

眠れない夜を越えて蝉の声を聞いた日は、なんだか責められているような気分になる。

「どうせお前はこれから寝るんだろ?いいご身分だな。80年も生きられるんだもんな。そりゃあ1日くらい潰してもなんともないよな。みーんみんみんみん」

 

「蝉君はいいね。私たちは80年間、毎年君たちの声を聞き続ける。私は歳をとっていくのに、耳に入る音だけは変わらない。毎年だよ。蝉の声を聞くたびに、ゆらぐアスファルト、常緑樹についた朝露の匂い、膨れ上がって巨大化した雲、夕立の日に雨宿りしたあの子、肌を重ねたときの汗を思い出すんだよ。勘弁してよ」

 

地に足がついている気がしないのは暑さからくる貧血のせいか、それとも?

服を着るにも、どこに行くにも、電車に乗るにしても、とにかく全ての行為が物語の一部のように感じられてしょうがない。フィクションの世界に生きてる気分。現実世界の私は部屋で延々と寝ているか、とっくの昔に学校の屋上からスカイダイビングでもしてそうな、そんな気分になる。

 

入道雲は、私の背負う背景にしては壮大すぎる。

強い日差しは、全てを照らしすぎる。

蝉の声は、過去の記憶を引っ掻く。

 

「ねえ!未来の私!どんどん死が迫っているよ!元気にしてる!?えっとね、私はねえ、めっちゃ元気!」

なんて、高校時代の私の幻影がうるさいのだ。昔の私が勝手に今の私の目の前に現れて、急かされる。

 

夏は死の季節じゃない。でも、夏と死は相性がいい。

夏に死ねば、永遠の存在になれる気がする。私は消えない。蝉の声が、私のことを毎年思い出させるはずだ。入道雲の陰が、私の顔の形を作ったりするはずだ。

 

夏に死ねば、生きられる。

 

 

23歳はすぐそこだ。

真夏に生まれて、23年。

私の誕生日はイヤという程晴れて気温が上がるというのが毎年恒例だ。

ゆらぐアスファルト、入道雲、蝉の声、白くて古い病院のひび割れはよく目立っただろう。

そんな新宿区の病院の一室で私が生まれたのは朝の8時。

お母さんは、蝉が鳴き始めたのに気付いただろうか。

 

 

 

今年の夏初めてのセックスは、汗をかいて、息があがって、びっくりした。

汗が吸着剤になって、肌と肌がぴったりくっついて、粘るみたいなセックスをした。

「私たちは恥部をさらけ出してていいんじゃないか」

カーテンの隙間から朝日が差し込んで少し明るくなった部屋で、口を精液でいっぱいにしながら、ぼうっと思った。

こめかみに汗がつたった。冷房のタイマーが切れていたみたいだ。

仰向けに横たわる相手の細身な太ももの間に座り込み、ソフトクリームを舐める要領で柔らかくなったペニスを綺麗にした。

むっとする匂いだ。布団に、自分の髪に、部屋に、精液の匂いが籠っている。

髪をかきあげ、枕元のトイレットペーパーを引きちぎって口の中の粘液を吐き出す。

前回はあったゴミ箱が無い。聞くと、キッチンの脇に散乱したゴミ袋に直接捨てているらしい。

 

いくつかの鍋と、スプーン、コップ、箸、皿、タッパーがこれでもかとシンクに詰まったキッチンで煙草を吸った。

パーティでもしたのかと思うような量だったが、どうやら3、4日分の自炊の痕だ。梅干しの種とふりかけの袋がタッパーの中に貼り付いている。

 

28歳独身男性の夏は、どんな夏だろう。

 

「俺、一度も自分のこと頭良いと思った事ないよ」

 

28歳、散乱したゴミ袋、溜まった洗い物、枕元のトイレットペーパー、クローゼットから出てきたピンクの電動マッサージ機。

 

 

テレビの電源をオフにして、家を出た。

「弱」で回り続けるキッチンの換気扇はそのままで。

マンションを出れば世田谷区の慣れない駅……ここにもいつものあいつがいる。

夏。

 

 

夏の数と街の数を掛け合わせて、忘れられない思い出が増えていく。

 

思い出がふわふわしていて怖いから、身体に刻んでいく。

定期的に、ひとつ、ふたつ……いや、ひとり、ふたり

 

 

最中の男の目の黒さを思い出して、くだらないな、と心の中で吐き捨てる。

 

 

 

夏が始まるから。

今年も、いつもと同じように。

同じ時間が繰り返されるように。

新卒就活、倍率マイナス1の私です

「今年度の弊社の新卒採用倍率は○倍でした」

こんな自尊心を爆上げしてくれる報告を内定先から聞く時期では無いだろうか。

世の中は空前の売り手市場(と、言われている)。

無い内定の人は、全体的に見たら多分減っているのだろう。企業を選ばなかった場合の話。

 

「やった!私は○分の1として選ばれた人間なんだ!」

 

さぞかし嬉しいことだろう。

人生の輝かしい1ページだろう。

ちなみにそんなあなたの足下には、倍率マイナス1の数の屍が転がっている。

その屍を越えてゆけ。屍のぶんも頑張れ。頑張らなかったらぶん殴るぞ。

 そんなことを思う私の涙は枕に綺麗さっぱり吸収されて、朝には何も無かったかのように乾いていた。

倍率マイナス1の人数分の涙を全部足したら、2リットルペットボトルに収まるんだろうか。

 

この壁の向こうに、線路の向こうに、県境の向こうに、インターネットの向こうに、誰にも見せられない涙を流している人がいる。

みんなが違う気持ちを抱いて同じ空を見上げている。

スマホブルーライトよりずっと目に優しい夜空、夜空が優しすぎて涙がちゃんと出てしまう。

 

そして私はまだ諦めていない。

希望を捨てたワケじゃない。

もし、万が一3年後になったとしても、それまで頑張れる。確信している。

 大丈夫、心臓はまだ止まってくれない。

そんで、意外な場所で、予期せぬ良い事も待ってるさ。

 

若いうちの挫折は財産っていうのは年食った時の挫折のリスクがでかいってだけなんだけど、まあそんなかんじに考えておこう。 

今はそんなかんじで、未来に向かって自分を鼓舞するしかない。

 

私は昨日屍になった。

 

 

でもめっちゃ前向きな屍なんだだってベストを尽くしているから私は常にやれることを全てやるそうしていれば常に自分が大好きでいられるこの世界は広くて何が起こるかわからないんだよ陳腐な言葉だけどこれだけは本当なんだよいつだって自分に恥じない生き方をしようなどうせ負けると思ったら人間なんでもやりきれるもんなんだよ下手な打算が甘えが油断が身を滅ぼす

 

 

 

だから、いつも笑っていような

「思い出」は寂しさを埋めるためにある

思い切り笑う45歳になりたい。

心の底から、大口開いて、自分の人生を讃歌して笑いたい。

 

 

 

Kate Hudson - Cinema Italiano - Nine - 720p HD - YouTube

 

映画版NINEは映画としては微妙かもしれないが、ショー映像としては極上だ。

そして私はこのリンク先のような、バリキャリで、かつ女の楽しみを忘れていない、こーゆー45歳を迎えたいのだ。

最高にイケてるクライアントと二人、バーで大胆に背中の開いたドレスを着て、ショットをあおりながら煙草をばんばん吸っているような。こんな45歳になりたいのだ。

そして向かい風を受けながら、大口を開けて笑ってやる。自分の幸せを、自分の手の内で転がしてやる。

もはや手に入らないものは何も無い。イケてる男の花弁をちぎっていじけさせる、それくらいの長い爪を持っている。そんな女になりたい。

 

それでもふと、鏡が光る。男性の前には出られないような寝間着姿の、孤独にパソコンを叩く就活生が映る。現実。

この部屋でひとり。わたしはわたしの部屋でひとり。iPhoneの画面はお休み中で、LINEもTwitterも、なんの通知も鳴ることのない深夜1:40。

こんな夜は、背骨辺りがスカスカしたような気になる。背骨をどっかに落としてきたみたいに。頭の中ではそっぽを向く目がいくつも浮かんで、次々消える。

 

現状、わたしは皆のOne of Themにすぎない。私の背骨になろうなんて殊勝な人は、現時点においてはいない。「現時点においては」なんて言うのも、この孤独がいつか過ぎ去るものだと信じているから。だって私はまだ22。タラレバ娘になるにはあと10年ある。そう、あと10年。その10年の間に、きっと、きっと、誰か……。

 

これまでの10年、何人の男が過ぎ去っていっただろう。たとえたった一瞬だとしても、私の心を揺らした男たち。数えきれない。数えきれないほどの男たちが、私の心を揺らして去った。ビーズみたいな男たち。安っぽいプラスチックの、色とりどりの、キラキラ反射する思い出が散らばっている。

 

現状、私に好きな人はいない。できないと言った方が正しいのか。失恋の傷がまだかさぶただから。あのときの恐怖を思い出して、傷つくことがなによりも怖い。好きになるのが怖い。人の好意を素直に信じられない。そうしてもごもごしているうちに、また、一人一人と去っていく。

 

去られた思い出を反芻するのは心地いい。治癒した傷は「若かりし日の思い出」として昇華される。あの頃の自分を「カワイイなあ」なんて思いながら反芻することができる。直近の失恋に関しては、記憶すら戻ってこないくせに。

 

愛されていた若き日の自分を思い出して、現状の寂しさを埋めようとする。

「本当は寂しい思いなんてする女じゃないの」なんて励ましを一人で繰り返す。

 

ばからしい。ばからしいけど、寂しさを見つめるよりは、ずっと平常心でいられるから。

 

明日も元気な顔をするために、幸せな顔をするために、平常心を保とうとする。

台風の目の中にいようとする。

そうでもしなければ寂しさの暴風雨は今にも私をふきとばし、身体はバラバラのグチャグチャになってしまうから。

 

10年の間に、私は価値を失っただろうか。いや、失ったものは価値じゃない。

それじゃあ、失ったものは何なんだろう。

素直さ?愚直さ?いや、違う。

 

私が失ったもの、それは「無知」だ。

 

行く末が或る程度想像できるようになってしまった以上、今までみたいに「結果オーライ!」とはいかない。でも手のひらで転がすこともできない。

「無知」でもないし「熟知」しているわけでもない。

この狭間、22歳、狭間にいるから、上手くいかない。

1人で立てる。2本の足で歩ける。でも、しゃがむことができないのだ。

求めているものは、安心して腰掛ける為の背骨。

 

いつになったら、背中の空洞は埋まるだろう?

 

 

綺麗な言葉で隠すこと --いい女/男--

肩が震えて、朝の空気がやってくる。

 

ポリエステル生地のブランケットに羽毛布団を重ねて、一晩中取り合いをする。暖房がタイマー通りに切れる。

誰と掛け布団を取り合う夜を過ごそうが、せめてブランケットだけでも私に譲ってくれよと思う。譲ってくれる男は「いい男」だと思う。冬の乾燥した空気の中、ベッドサイドにタオルを干しておいてくれる男性は「いい男」だと思う。

そんなことを思いながら、水っぽい鼻をむずむずさせる。朝のまだ静かな喫茶店で、くしゃみが濁った熱を持ってこみあげる。一年の半分くらいは風邪を引いているんじゃないかと思う。指先が嫌な冷え方をしている。昨日の夜はこうなることを覚悟しながら、大事な取引を控えた社会人に布団を譲ってやったのだと思う。

 

社会人からしてみれば、大学生なんて毎日が休日だそうだ。私立文系大学生の私が倒れたところで責任事項は起こりえないし、収入が無くなるなんてこともない。なんなら単位だってなんとかなる。

だからこそ目覚ましが鳴ったら自分がどんなに眠かろうが相手を起こし、出社を見送ることが私の仕事だ。社会人の朝は1限に出席するよりも早い、なんて現実を体感するのはもうちょっと遅くてもよかったかもしれない。寝不足で酸欠の頭を抱えながら、みかんを剥きつつしばしまどろむ。聞くところによると、朝ちゃんと起きて男性を起こすことのできる女性は「いい女」だそうだ。男性の言う「いい女」と「都合のいい女」の違いはなんだろう。そもそもそこに違いはあるのだろうか。ついでに言うと、男性の言う「モテる女」と「軽そうな女」の違いも、私にはわからない。

 

そういえば以前、周りの男性に「いい女ってどんな女?」と聞き回ったことがある。結局得られたほぼ全ての回答が「人による」だった。私が質問した男性陣は或る程度客観的視点をもち、帰納的に定義付けするくらいの頭があり、言語化できる人たちだ。私には彼らが濁しているようにしか見えなかった。濁しの裏にはなにやら後ろめたいことがあると勘ぐってしまうのは私が懐疑的というよりも、人の性だと信じたい。

そうして濁され隠された彼らの本音には、彼ら自身のプライドを傷つけるような「わがまま」や「甘え」の要素が含まれているのだろうと思う。思うばかりで、それ以上の追求はしないけれど。

 それは女も同じだろう。自分の「わがまま」や「甘え」に付き合ってくれる人のことを「いい男」に分類するんじゃないか。自分のことを気遣ってくれる、自分にとって快適な環境を作ってくれる、自尊心をくすぐるようないい気持ちにさせてくれる。「男は金」論だって、その論を提唱するような女性をいい気持ちにさせるにはそれなりのお金が必要という、ただそれだけの話なんじゃないか。

 

そう考えると、「幸せにしてくれる」や、「愛されている」なんていうのも、単に「自分の『甘え』『わがまま』につきあってくれる」ことの綺麗な言い換えでしかない。「幸せ」やら「愛」やら、そんなもの、非現実的なイデアでしかないじゃないか。綺麗な言葉で汚さをラッピングして、見てみぬふりをして、素知らぬ顔でクリスマスムードの街を闊歩するのだ。

「いい女」「いい男」なんて、溢れるほどのコラムで書かれているような倫理道徳的に正しい人のことじゃない。コラムで書かれているような「いい女/男」なんて、同性から見たときの理想的な生き方モデルでしかない。異性から見たときの「いい女/男」は、二番目の存在になりがちな都合のいい優しい人間か、そろばんをはじくように損得勘定をして、自分の利益不利益を天秤にかけながら振る舞っている人間だろう。

 

恋愛は、資本主義社会で生きる人間の最後の砦なんかじゃない。恋愛はむしろ、社会を生き抜く力バトルの決勝戦だ。

現実的にならなければいけないことから目を背け、逃げて、恋愛を「ロマンティックなもの」にするのはもうやめにしないか。把握しきれない複雑怪奇な事柄を高尚なものへと昇華して、思考を止めるのはもうやめないか。人を踏みつけて得た「勝利」を「幸せ」と言い換えるのは、もうやめないか。

 

 

 

あなたがその綺麗な包み紙を開けたとき、出てくる中身はなんですか。

 

 

 

 

汝、自己の拡散を食い止めよ。

背中を梳くような浮遊感。

 

華々しい引退という形で、2年くらい与えられ続けた居場所を失った。居場所にとらわれることは辛くもあり幸せなことでもあると、改めて痛感する。


居場所を失った今もはや私が何者であるかは宙に浮き、所属も肩書きも一切無く、私は名前でしか定義されることのない存在になった。
それでも名前なんて記号は人の形を縁取るにはあまりに頼りなくて、つまるところ私はまたしても形を持たない存在になってしまった。輝く外枠を失ってしまった。今、私のイメージは身体をゆうにはみ出し、あちらこちらに散らばっている。何にも縛られないことは、自己が拡散して薄まってしまうことと同義だった。

 この前の夏に私は自分の二本の脚で立つことを思い出した。でも、それはこれまで組織におんぶにだっこになっていたことの証明でしかない。元々一人だったら自明の理のはずの、誰にでもわかるはずの簡単なことだ。と、組織を失った今、気づく。

 

縛られないということは、つまり自由だ。自由と同時に浮遊することでもある。浮遊しているということは、とても精神的コストがかかる状態だ。ここで自意識に支配されて周りが見えなくなるか、周りの目を気にしすぎて自分が消え失せるかはその人次第。でも、自意識と客観的視点をバランス良くもつことが至難の技であることは間違いない。
自意識と客観的視点のバランスを保ててやっと、人は大人になれるのではないかと思う。一人の人間として、二本の脚で立つ存在として社会に参画できるようになるのではないかと思う。

 

そんなことを思えば思うほど私は未熟だ。

凛とした女性になりたいのにarを買って、ちやほやされたいのに自分より美人の友達ばかりつくって、強くありたいのに頼れる人を捜してやっきになってしまう。

自分の欲望と行動が噛み合ない。

でも、それでもいいと思ってしまう自分がいる。甘えてしまう。だめだだめだと思っているのに評価されたり、親友がいたり、いいかんじの男性がいたり、「なんだ、これでも人生うまくいくじゃん」なんて思ってしまう。自分の芯なんてものを失えば、自分に嘘をつき続ければ、いくらでも人生を上手くまわすことができると知ってしまった。こんなことを続けていれば、最後に待つのは孤独だということを悟りながら。

 

最終的な孤独を避ける為に必要な「自分を持つ勇気」というのは、読んでないけど最近流行の「嫌われる勇気」と同じようなことなんじゃないか思う。全員から好かれようとすれば自己は薄まって「あなたしかいない!」みたいな大事にされ方はされなくなる。いくらでも代わりのいる存在になる。人によってはそれでもいいのかもしれない。インスタント食品みたいに、価値は感じられないけど生活には必要といえば必要みたいな存在であることが心底心地いい人もいるかもしれない。

でも、私は三ツ星フレンチでありたいのだ。なんならパリのエピキューレみたいに、前衛と伝統と優雅さと華やかさを兼ね備えた三ツ星フレンチでありたい。とっておきの存在でありたい。でも、でも、怖い。自分を出すことで人から逃げられるのが怖い。みんなから好かれたい。常に必要とされたい。ほんとうは、簡単には手の届かない高貴な女になりたいのに。そこまでする勇気がない。

 

こんなことを考えるのも、肩書きを失ったからだろう。後ろ盾がなくなった今、自分の見せ方を考えるのは自分しかいない。何にも定義されることのない自由が、自己責任の四文字を叩きつけてくる。

自分に対する責任から逃げることほど簡単なことはない。そう、人間万事塞翁が馬。なんとかなるだろう。でも、精神的に向上心のない者は馬鹿だ。常に努力して、泥臭くあがいて、人生を作品にしなければならないと、思うには思っている。

 

背中を震わせる浮遊感に負けてはいけない。安易に居場所を求めてはいけない。そうしなければ、向上はない。

光り輝く自分の縁取りを自分で作ること、それが今の目標であり、大人になろうとする私の使命だと思う。

 

理想は実現させるものよ、と、自分に言い聞かせる。

まだ、身体の中は喪失感でいっぱいだ。

4回目の冬

他人と共有する掛け布団が恋しくて、心の震えないセックスをする。

この季節が大嫌い。

 

薄靄で遮られた弱々しい太陽の光も、散りきった街路樹も、さびしい音をたてる北風も、ぜんぶぜんぶ切り取ってしまいたい。

あまつさえ心の中は埋められない寂寞感でいっぱいなのに、目に見えるものまでこうなってしまっては持ち直しなんてできっこない。冬の夕暮れなんかチャイのスパイスと一緒に煮詰めて溶けてしまえばいいと、本気でそう思う。

 

黒い電線も、灰色のビル群も、目立つことだけを考えたネオンも、東京の景色は全力で私を殺しにかかってくる。たしかスイスに留学することを決めたのもこの季節だった。東京の景色が嫌で、ただひたすら逃げたかった。スイスの冬は輝いていたし、ロンドンの景色は雨によく似合っていた。東京に帰ってきて4回目の冬、私はやっぱりこの街が嫌になった。

 

友人と会えば何か変わるのかもしれない。仕事から逃れれば何か変わるのかもしれない。そんなことを一年中考えている間にまた冬が来る。一年のオワリだとか、イベントだとか、そんなうっとうしいものを押し付けられる。酒浸りの頭は冴えないし、煙草が眠気をもってくる。

 

なにか打ち込めることを作れと人は言うかもしれない。そんなことが気にならないくらい熱中していないことが悪だと言うのかもしれない。いや、正直打ち込むことはあるし、自分の可能性にワクワクだってしているんだよ。でも、大嫌いな冬の景色は嫌でも目に飛び込んでくる。

 

たとえ髪を明るくしても、目の周りをキラキラさせても、頬に上気したような血色チークをさしたとしても、弱い太陽光が部屋を彩ることはない。ふわふわした服を着たところで、冬のさびしさを一層際立たせる手助けにしかならない。アップチューンな音楽を聴いてもどこか空虚で、世界が輝くなんてことはない。それが冬という季節で、東京という街だ。

肩にずしりとのしかかるコートは背筋を曲げるし、身体は寒さから身を守ろうと肩をすくめさせる。内臓の不快から手のひらばかりに汗がにじむ。イヤリングの金具はキンキンに冷えて、どんどんかっこわるい姿になっていく。自分の理想から遠ざかる。

冴えない頭に重い身体、浮腫んだ頬と手首が熱っぽい。暖房の風は砂漠の砂みたいに全身を蝕んでいく。

早く過ぎ去ってくれと切に願う。もうこれ以上私をいじめないでくれと強く思う。

 

 思い出で汚しすぎてしまっただけかもしれない。それでもたしかにこの季節とこの街は、私に現実を、心の空虚を打ち付けてくる。

地上線急行に乗って遠くに行きたい。長すぎる冬を、過ぎ行く街並みの速さでごまかしたい。

 

ひとつの街に留まることが、この冬を永遠に感じさせる。

 

不幸になりたければ酒を飲め

酔った頭で何かを決めたらそれは大抵間違いだ。

 

二日酔いの重い頭で相手の怒った顔を見る。「ああ、終わった」という乾いた絶望感。酔っていた頃が嘘みたいに、いやに冷静になる時間。まだ太陽の昇らない冬の朝五時の、ナイフみたいな風が頬を切りつける。

あたたかい家から追い出された孤独がうずうずする。なぜか心が満たされていく。

 

「大切な人に迷惑をかけた、今日も私は不幸だ」

 

人を人とも思わない自分勝手さ、人の迷惑で快感を得るねじまがった根性。吐き気がするほど気持ちの悪い自分の生き方に、どこか安心する。

幸せでいるときは不安だ。シーソーをこいでいるような気分。いつ砂利にたたきつけられるのか分からない、不安定な幸福の均衡。それなら最初から尻餅をついていればいい。そうすれば、ショッキングな痛みを感じることは無い。

 

自ら不幸を選択することによって想定外の不幸から逃げ続ける。心の中で泣き続ける。棚ぼた的な不幸のダメージを軽減させるために。

幸せをつかむには、度胸が必要だ。この決断によって精神が壊れてもいい、それくらいの覚悟がないと幸せにはなれない。

あたたかい帰る場所があること、居場所があること、頼れる人がいること、認めてくれる人がいること、金銭的余裕があること。世間一般の幸せの条件なんて簡単だ。パパっと箇条書きできてしまうようなことでしかない。だからそんな条件すら満たせない自分に言い訳をする。「私は不幸でいたいだけ」。

でも、そんなことを言ったところで、本当はそんなわけがない。幸せになりたい。幸せで満たされたい。喉から手が出るほど幸せを欲している。そう、ひたすら、どん欲に。アドレナリンが過剰分泌されるような「幸せ」が欲しい。幸せになりたい。幸せになりたい!

 

それでも私は逃げ続ける。酒に溺れて誤った判断を下す。駄目だとわかっていながら酔いの勢いにまかせて手足を動かす。そしてもはや修復不可能な関係にノスタルジーを感じつつ、後悔することしかできない自分が生まれる。

 

この後悔の痛みだって、1週間もすれば忘れるだろう。それくらい東京の時間は早いし、あらゆる出来事で満ちているし、常に何かに追われているのだ。

 

大切なものを失ったとき、気づくのはその軽さでしかない。

 

愛する人を失っても死ななかった。

大切にしてくれる人を裏切っても死ななかった。

大きな責任を放棄しても死ななかった。 

そうして私は、今日ものうのうと生きている。

 

できれば!何の保証もない人生で、いつ何が消えるか分からない東京という街で、渋谷の喫煙所くらいには惜しまれたい。

できれば!誰かに信頼されて、肯定されて、それから……。

そんなエゴの塊をかかえながら、人に迷惑をかけつづけて生きていく。心の中で涙を流しながら。心の涙は血管を通って全身に渡り、アルコールとほどよく混じって、私を夜の街へと向かわせる。

 

すべての重みが失われていく東京で、なにか1つ、大切なものができたとしたら。

心から信じれるものができたとしたら、もう幸福を疑わなくてもよくなるのかもしれない。

 

それでも私は間違うのだろう。人に迷惑をかけるのだろう。幸せが欲しいと、他力本願な叫びをアスファルトに響かせながら。ニコニコ笑って、酒をあおる。束の間の安らぎを求めて、大切なものの軽さを忘れるために。そして今日も、間違うのだろう。

 

酒は不幸への近道だ。自分を不幸にさせたければ、不幸になれたければ酒を飲もう。

酒を飲んだあとに一人になれば、もう、不幸へはあと一歩だ。