東京不幸中毒

幸せを追っかけても不幸にしかならなかったので、不幸を追っかけてみることにした

もう勝手にしやがれ、甘い蜜には毒がある。

1度に3つの性病に罹った。

3つといってもどれもよくあるもので、正直HIVや梅毒みたいに深刻なものがないのが救いだ。

性病に一度かかると2週間はセックスができない。セックスどころかオナニーすら叶わない。これは深刻な問題だ。これでいて結構本気で頭を抱えているのだ。

かさむ医療費、息は潜めれど一生身体に残るウイルス、なんとなく後ろめたい気持ち、エトセトラエトセトラ。もし不妊にでもなったら家系図が私で止まってしまうことも不安の一つ。私は戸籍上一人っ子で従兄弟もいない。

私が産まねば途切れてしまう。今日日のツイッターは子育てがさも地獄のように取り上げられられるけど私の運命にそんな地獄が待ち構えていると思うと本当に勘弁してほしい。赤ちゃんの夜泣きなんてまっぴらごめんだし働いていたい。フル稼働で変化し続ける社会の渦の中にいたい。家で薄暗い昼下がりを赤子の泣き声と共に迎えたくなどない。

でも子どもが欲しくないわけじゃない。自らの血を分けた新しい生命なんてなんと神秘的で美しいことかと思う。出産は、人間、しかも女に産まれた私が起こせる唯一の奇跡だ。奇跡を起こしたいと思う。そして不確実で不安定な未来を繋ぎたいと心の底から思う。

 それでも人生においての全ての悦び、頭を蕩かす甘い密には毒がある。

セックスを愛する若い女体に病気が潜みつづけるみたいに、奇跡が産む新たな生命がすべからく原罪を抱えるみたいに、そこらかしこに毒がある。もちろん毒は棘を持って隠れている。まどろみの中に身を潜めている。蜜が甘ければ甘いほど隠れるカーテンは厚く、棘は黒く鋭く、毒の蝕みは順調快調爽快だ。

 

チョコレートも、恋も、セックスも、社会的地位も、睡眠も、出産も

歯に毒を、心に毒を、子宮に毒を、経験に毒を、筋肉に毒を、原罪に毒をもって私の頭を蕩かしてくる。

 甘い蜜には毒がある。

毒を食らわば皿までというし、せっかくだから不幸も全部自分から積極的に舐め尽くして無限のまどろみに惑わされたい。

たしかに死までのルーティンワークから私たちは逃れられない。でも、あえて逃げずに快楽をむさぼる事はできる。

まどろみを取って毒をも食らうか、無味乾燥な人生を送るかは、

もう「勝手にしやがれ」!

 

大丈夫、性病にかかってもなにがあっても人間簡単には死ねないんだよ。

お願いだからモテたくない

モテ系女性誌の意味がわからない。

不特定多数にモテることは私にとってまぎれも無い不幸だ。

好きになる可能性の無い人からのデートからのお誘いその他アプローチに類する事柄全てに嫌悪感を抱く。正直吐き気すらもよおす。

悪い人ではない、傷つけていい相手じゃない。だからこそ嫌だ。そんな人を無碍に扱いたくはない。

モテることは無碍に扱う人数を増やすことだ。

気のない人からアプローチをかけられるくらいなら、いもしない彼氏がいる体を装った方がまだマシだ。

それなのに不特定多数モテを標榜する女性誌が人気でありつづけるのは、好きになった人を的確に狙い落とすためなのだろうか。それともマジョリティはそんな不特定多数モテを求めているのだろうか。もしくは、好きになった唯一人を落とす為に多くの人の気持ちにゴメンナサイしなければならないのが社会の摂理なのだろうか。

そんなのって、そんな社会なんて、あまりに不幸すぎる。

 

多くの人とやりとりをして、多くの人とデートする。好きじゃない人に親切にされればされるほど自分が「悪い人間」のように思えてくる。私はその親切に応えることができない。対価を提供できない。私は人の心を弄ぶ「悪い人間」だ、という罪悪感にかられる。

努力は報われなければならない、と思うからこそ。自分のモットーを自分で否定するからこそ苦しい。自分のモテ嫌悪の理由がここまでわかってしまうと「私はただの自己愛のかたまりだ」とさらなる自己嫌悪に襲われる。

 

だから不特定多数から好かれることが幸せだと思えない。返せない好意は自己嫌悪を誘発する。

モテたくない。

モテればモテるほど、辛くなる。

恋心とは恐ろしいもので、好意を向けてくれる相手に自分をネガキャンしたところで中々冷めてくれるものではない。一度好きになられたら終わりなのだ。というかむしろ、ネガキャンをすればするほど好きになられる気すらする。

 

好かれたいのは私が好きになった人からだけだ。

でも、世の中そんなふうにできてない。モテる人は不特定多数からも好意を向けられ、モテない人は好きな人に振り向いてもらえないなんてことが殆どだ。

 

人工知能だかなんだか知らないが、上手くそのへんをどうにかしてくれないものか。誰かを好きになりそうな段階で「○○さんがあなたのことを好きになる可能性は○%です」とか教えてくれはしないものか。それで不特定多数からのアプローチが無くなれば、少なくとも私は幸せになる。

 

人には他者を好きになるかどうかのボーダーラインがある。そして、自分のボーダーを把握しきっている人は少ないと思う。恋のボーダー総合点で定まるもので、婚活のように細かく条件付けできるものではない。それを越えない人は、どんなに頑張られても無理なのだ。総合点の問題なので、どこを改善してくれれば……とかじゃない。どんなに頑張られても好きになれないのだ。

 

好きな人を振り向かせるための方策として、欠点を補う意味での「人から嫌われない条件」を身につけることが有効だとしても、取ってつけるタイプの「モテ要素」なんてものはまるで意味が無い。

「モテ要素」を身につけたところで相手が見ているものは総合点。言い換えれば「要素のバランス」だ。取ってつけた「モテ要素」が相手にクリティカルヒットすることなんて、20代後半にもなればまず無いだろう。

 

また、世間的にモテると思われる社会的強者の人が相手に求めるものほど定型化しづらい。

たとえば「年収は低くてもいいが楽しく話せるくらいの頭の良さは必要」とか、「自分とは別の専門に秀でている」とか、「容姿が優れていればいい」「家庭的であること」とか。持てる者が要求する事柄は千差万別だ。女性の社会進出が進んだ現代において、もはや3高3低とかの”鉄板モテカゴライズ”はどんどん形骸化が進む。持たざる者を狙うのであればまだしろ、持てる者を狙う人にとって不特定多数向けの「モテ作戦」なんてものは無駄であり、雑魚モテ誘発剤でしかない。メディアや広告代理店が発信するモテ要素を真に受けてはいけない。

 恋愛はマッチングだ。好きになる人に振られ続けているなら、好きになる人のレベルが自分と釣り合っていない事実を噛み締めてレベルアップに励むしかない。

レベルが同等なのに上手く行かないなら相性が悪い。相性の悪い人とつき合ったところで幸せになどなれないのだから、自分の未来が暗くならないための天啓だと思った方がいい。次に出会う人が最上の幸せをもたらすよ、という天啓の可能性もある。

 

モテ系女性誌の意味がわからない。

婚活に焦るアラサー世代未満対象の女性誌で雑魚モテテクを発信する意味が分からない。

好きな人を振り向かせる為に一般的なモテテクなんてものは何の役にも立たない。

それなのに、どうしてモテテクを求める人がいるのか。

人の気持ちを無碍に扱うことが快感なのだろうか。

 

その気持ちはわからない。

私はきっとこれからも、不器用ながらもありのままの自分で勝負していくのだと思う。

いつかきっと、好きになった人が私のことを好きになる日が来ると信じて。

静止した蝉の鳴く季節

 

「今年も蝉が鳴き始めた」

 

 

この季節になった途端、蝉が太陽の訪れを知らせるようになる。毎朝、毎朝、毎朝。こっちの生活リズムなんて蝉には関係ない。彼らの命はたった1週間なのだ。彼らは7日を、168時間を生きたら、ぽとりと木から落ちる。

 

朝の訪れを知らせるだけ知らせて。

 

眠れない夜を越えて蝉の声を聞いた日は、なんだか責められているような気分になる。

「どうせお前はこれから寝るんだろ?いいご身分だな。80年も生きられるんだもんな。そりゃあ1日くらい潰してもなんともないよな。みーんみんみんみん」

 

「蝉君はいいね。私たちは80年間、毎年君たちの声を聞き続ける。私は歳をとっていくのに、耳に入る音だけは変わらない。毎年だよ。蝉の声を聞くたびに、ゆらぐアスファルト、常緑樹についた朝露の匂い、膨れ上がって巨大化した雲、夕立の日に雨宿りしたあの子、肌を重ねたときの汗を思い出すんだよ。勘弁してよ」

 

地に足がついている気がしないのは暑さからくる貧血のせいか、それとも?

服を着るにも、どこに行くにも、電車に乗るにしても、とにかく全ての行為が物語の一部のように感じられてしょうがない。フィクションの世界に生きてる気分。現実世界の私は部屋で延々と寝ているか、とっくの昔に学校の屋上からスカイダイビングでもしてそうな、そんな気分になる。

 

入道雲は、私の背負う背景にしては壮大すぎる。

強い日差しは、全てを照らしすぎる。

蝉の声は、過去の記憶を引っ掻く。

 

「ねえ!未来の私!どんどん死が迫っているよ!元気にしてる!?えっとね、私はねえ、めっちゃ元気!」

なんて、高校時代の私の幻影がうるさいのだ。昔の私が勝手に今の私の目の前に現れて、急かされる。

 

夏は死の季節じゃない。でも、夏と死は相性がいい。

夏に死ねば、永遠の存在になれる気がする。私は消えない。蝉の声が、私のことを毎年思い出させるはずだ。入道雲の陰が、私の顔の形を作ったりするはずだ。

 

夏に死ねば、生きられる。

 

 

23歳はすぐそこだ。

真夏に生まれて、23年。

私の誕生日はイヤという程晴れて気温が上がるというのが毎年恒例だ。

ゆらぐアスファルト、入道雲、蝉の声、白くて古い病院のひび割れはよく目立っただろう。

そんな新宿区の病院の一室で私が生まれたのは朝の8時。

お母さんは、蝉が鳴き始めたのに気付いただろうか。

 

 

 

今年の夏初めてのセックスは、汗をかいて、息があがって、びっくりした。

汗が吸着剤になって、肌と肌がぴったりくっついて、粘るみたいなセックスをした。

「私たちは恥部をさらけ出してていいんじゃないか」

カーテンの隙間から朝日が差し込んで少し明るくなった部屋で、口を精液でいっぱいにしながら、ぼうっと思った。

こめかみに汗がつたった。冷房のタイマーが切れていたみたいだ。

仰向けに横たわる相手の細身な太ももの間に座り込み、ソフトクリームを舐める要領で柔らかくなったペニスを綺麗にした。

むっとする匂いだ。布団に、自分の髪に、部屋に、精液の匂いが籠っている。

髪をかきあげ、枕元のトイレットペーパーを引きちぎって口の中の粘液を吐き出す。

前回はあったゴミ箱が無い。聞くと、キッチンの脇に散乱したゴミ袋に直接捨てているらしい。

 

いくつかの鍋と、スプーン、コップ、箸、皿、タッパーがこれでもかとシンクに詰まったキッチンで煙草を吸った。

パーティでもしたのかと思うような量だったが、どうやら3、4日分の自炊の痕だ。梅干しの種とふりかけの袋がタッパーの中に貼り付いている。

 

28歳独身男性の夏は、どんな夏だろう。

 

「俺、一度も自分のこと頭良いと思った事ないよ」

 

28歳、散乱したゴミ袋、溜まった洗い物、枕元のトイレットペーパー、クローゼットから出てきたピンクの電動マッサージ機。

 

 

テレビの電源をオフにして、家を出た。

「弱」で回り続けるキッチンの換気扇はそのままで。

マンションを出れば世田谷区の慣れない駅……ここにもいつものあいつがいる。

夏。

 

 

夏の数と街の数を掛け合わせて、忘れられない思い出が増えていく。

 

思い出がふわふわしていて怖いから、身体に刻んでいく。

定期的に、ひとつ、ふたつ……いや、ひとり、ふたり

 

 

最中の男の目の黒さを思い出して、くだらないな、と心の中で吐き捨てる。

 

 

 

夏が始まるから。

今年も、いつもと同じように。

同じ時間が繰り返されるように。

新卒就活、倍率マイナス1の私です

「今年度の弊社の新卒採用倍率は○倍でした」

こんな自尊心を爆上げしてくれる報告を内定先から聞く時期では無いだろうか。

世の中は空前の売り手市場(と、言われている)。

無い内定の人は、全体的に見たら多分減っているのだろう。企業を選ばなかった場合の話。

 

「やった!私は○分の1として選ばれた人間なんだ!」

 

さぞかし嬉しいことだろう。

人生の輝かしい1ページだろう。

ちなみにそんなあなたの足下には、倍率マイナス1の数の屍が転がっている。

その屍を越えてゆけ。屍のぶんも頑張れ。頑張らなかったらぶん殴るぞ。

 そんなことを思う私の涙は枕に綺麗さっぱり吸収されて、朝には何も無かったかのように乾いていた。

倍率マイナス1の人数分の涙を全部足したら、2リットルペットボトルに収まるんだろうか。

 

この壁の向こうに、線路の向こうに、県境の向こうに、インターネットの向こうに、誰にも見せられない涙を流している人がいる。

みんなが違う気持ちを抱いて同じ空を見上げている。

スマホブルーライトよりずっと目に優しい夜空、夜空が優しすぎて涙がちゃんと出てしまう。

 

そして私はまだ諦めていない。

希望を捨てたワケじゃない。

もし、万が一3年後になったとしても、それまで頑張れる。確信している。

 大丈夫、心臓はまだ止まってくれない。

そんで、意外な場所で、予期せぬ良い事も待ってるさ。

 

若いうちの挫折は財産っていうのは年食った時の挫折のリスクがでかいってだけなんだけど、まあそんなかんじに考えておこう。 

今はそんなかんじで、未来に向かって自分を鼓舞するしかない。

 

私は昨日屍になった。

 

 

でもめっちゃ前向きな屍なんだだってベストを尽くしているから私は常にやれることを全てやるそうしていれば常に自分が大好きでいられるこの世界は広くて何が起こるかわからないんだよ陳腐な言葉だけどこれだけは本当なんだよいつだって自分に恥じない生き方をしようなどうせ負けると思ったら人間なんでもやりきれるもんなんだよ下手な打算が甘えが油断が身を滅ぼす

 

 

 

だから、いつも笑っていような

「思い出」は寂しさを埋めるためにある

思い切り笑う45歳になりたい。

心の底から、大口開いて、自分の人生を讃歌して笑いたい。

 

 

 

Kate Hudson - Cinema Italiano - Nine - 720p HD - YouTube

 

映画版NINEは映画としては微妙かもしれないが、ショー映像としては極上だ。

そして私はこのリンク先のような、バリキャリで、かつ女の楽しみを忘れていない、こーゆー45歳を迎えたいのだ。

最高にイケてるクライアントと二人、バーで大胆に背中の開いたドレスを着て、ショットをあおりながら煙草をばんばん吸っているような。こんな45歳になりたいのだ。

そして向かい風を受けながら、大口を開けて笑ってやる。自分の幸せを、自分の手の内で転がしてやる。

もはや手に入らないものは何も無い。イケてる男の花弁をちぎっていじけさせる、それくらいの長い爪を持っている。そんな女になりたい。

 

それでもふと、鏡が光る。男性の前には出られないような寝間着姿の、孤独にパソコンを叩く就活生が映る。現実。

この部屋でひとり。わたしはわたしの部屋でひとり。iPhoneの画面はお休み中で、LINEもTwitterも、なんの通知も鳴ることのない深夜1:40。

こんな夜は、背骨辺りがスカスカしたような気になる。背骨をどっかに落としてきたみたいに。頭の中ではそっぽを向く目がいくつも浮かんで、次々消える。

 

現状、わたしは皆のOne of Themにすぎない。私の背骨になろうなんて殊勝な人は、現時点においてはいない。「現時点においては」なんて言うのも、この孤独がいつか過ぎ去るものだと信じているから。だって私はまだ22。タラレバ娘になるにはあと10年ある。そう、あと10年。その10年の間に、きっと、きっと、誰か……。

 

これまでの10年、何人の男が過ぎ去っていっただろう。たとえたった一瞬だとしても、私の心を揺らした男たち。数えきれない。数えきれないほどの男たちが、私の心を揺らして去った。ビーズみたいな男たち。安っぽいプラスチックの、色とりどりの、キラキラ反射する思い出が散らばっている。

 

現状、私に好きな人はいない。できないと言った方が正しいのか。失恋の傷がまだかさぶただから。あのときの恐怖を思い出して、傷つくことがなによりも怖い。好きになるのが怖い。人の好意を素直に信じられない。そうしてもごもごしているうちに、また、一人一人と去っていく。

 

去られた思い出を反芻するのは心地いい。治癒した傷は「若かりし日の思い出」として昇華される。あの頃の自分を「カワイイなあ」なんて思いながら反芻することができる。直近の失恋に関しては、記憶すら戻ってこないくせに。

 

愛されていた若き日の自分を思い出して、現状の寂しさを埋めようとする。

「本当は寂しい思いなんてする女じゃないの」なんて励ましを一人で繰り返す。

 

ばからしい。ばからしいけど、寂しさを見つめるよりは、ずっと平常心でいられるから。

 

明日も元気な顔をするために、幸せな顔をするために、平常心を保とうとする。

台風の目の中にいようとする。

そうでもしなければ寂しさの暴風雨は今にも私をふきとばし、身体はバラバラのグチャグチャになってしまうから。

 

10年の間に、私は価値を失っただろうか。いや、失ったものは価値じゃない。

それじゃあ、失ったものは何なんだろう。

素直さ?愚直さ?いや、違う。

 

私が失ったもの、それは「無知」だ。

 

行く末が或る程度想像できるようになってしまった以上、今までみたいに「結果オーライ!」とはいかない。でも手のひらで転がすこともできない。

「無知」でもないし「熟知」しているわけでもない。

この狭間、22歳、狭間にいるから、上手くいかない。

1人で立てる。2本の足で歩ける。でも、しゃがむことができないのだ。

求めているものは、安心して腰掛ける為の背骨。

 

いつになったら、背中の空洞は埋まるだろう?

 

 

綺麗な言葉で隠すこと --いい女/男--

肩が震えて、朝の空気がやってくる。

 

ポリエステル生地のブランケットに羽毛布団を重ねて、一晩中取り合いをする。暖房がタイマー通りに切れる。

誰と掛け布団を取り合う夜を過ごそうが、せめてブランケットだけでも私に譲ってくれよと思う。譲ってくれる男は「いい男」だと思う。冬の乾燥した空気の中、ベッドサイドにタオルを干しておいてくれる男性は「いい男」だと思う。

そんなことを思いながら、水っぽい鼻をむずむずさせる。朝のまだ静かな喫茶店で、くしゃみが濁った熱を持ってこみあげる。一年の半分くらいは風邪を引いているんじゃないかと思う。指先が嫌な冷え方をしている。昨日の夜はこうなることを覚悟しながら、大事な取引を控えた社会人に布団を譲ってやったのだと思う。

 

社会人からしてみれば、大学生なんて毎日が休日だそうだ。私立文系大学生の私が倒れたところで責任事項は起こりえないし、収入が無くなるなんてこともない。なんなら単位だってなんとかなる。

だからこそ目覚ましが鳴ったら自分がどんなに眠かろうが相手を起こし、出社を見送ることが私の仕事だ。社会人の朝は1限に出席するよりも早い、なんて現実を体感するのはもうちょっと遅くてもよかったかもしれない。寝不足で酸欠の頭を抱えながら、みかんを剥きつつしばしまどろむ。聞くところによると、朝ちゃんと起きて男性を起こすことのできる女性は「いい女」だそうだ。男性の言う「いい女」と「都合のいい女」の違いはなんだろう。そもそもそこに違いはあるのだろうか。ついでに言うと、男性の言う「モテる女」と「軽そうな女」の違いも、私にはわからない。

 

そういえば以前、周りの男性に「いい女ってどんな女?」と聞き回ったことがある。結局得られたほぼ全ての回答が「人による」だった。私が質問した男性陣は或る程度客観的視点をもち、帰納的に定義付けするくらいの頭があり、言語化できる人たちだ。私には彼らが濁しているようにしか見えなかった。濁しの裏にはなにやら後ろめたいことがあると勘ぐってしまうのは私が懐疑的というよりも、人の性だと信じたい。

そうして濁され隠された彼らの本音には、彼ら自身のプライドを傷つけるような「わがまま」や「甘え」の要素が含まれているのだろうと思う。思うばかりで、それ以上の追求はしないけれど。

 それは女も同じだろう。自分の「わがまま」や「甘え」に付き合ってくれる人のことを「いい男」に分類するんじゃないか。自分のことを気遣ってくれる、自分にとって快適な環境を作ってくれる、自尊心をくすぐるようないい気持ちにさせてくれる。「男は金」論だって、その論を提唱するような女性をいい気持ちにさせるにはそれなりのお金が必要という、ただそれだけの話なんじゃないか。

 

そう考えると、「幸せにしてくれる」や、「愛されている」なんていうのも、単に「自分の『甘え』『わがまま』につきあってくれる」ことの綺麗な言い換えでしかない。「幸せ」やら「愛」やら、そんなもの、非現実的なイデアでしかないじゃないか。綺麗な言葉で汚さをラッピングして、見てみぬふりをして、素知らぬ顔でクリスマスムードの街を闊歩するのだ。

「いい女」「いい男」なんて、溢れるほどのコラムで書かれているような倫理道徳的に正しい人のことじゃない。コラムで書かれているような「いい女/男」なんて、同性から見たときの理想的な生き方モデルでしかない。異性から見たときの「いい女/男」は、二番目の存在になりがちな都合のいい優しい人間か、そろばんをはじくように損得勘定をして、自分の利益不利益を天秤にかけながら振る舞っている人間だろう。

 

恋愛は、資本主義社会で生きる人間の最後の砦なんかじゃない。恋愛はむしろ、社会を生き抜く力バトルの決勝戦だ。

現実的にならなければいけないことから目を背け、逃げて、恋愛を「ロマンティックなもの」にするのはもうやめにしないか。把握しきれない複雑怪奇な事柄を高尚なものへと昇華して、思考を止めるのはもうやめないか。人を踏みつけて得た「勝利」を「幸せ」と言い換えるのは、もうやめないか。

 

 

 

あなたがその綺麗な包み紙を開けたとき、出てくる中身はなんですか。

 

 

 

 

汝、自己の拡散を食い止めよ。

背中を梳くような浮遊感。

 

華々しい引退という形で、2年くらい与えられ続けた居場所を失った。居場所にとらわれることは辛くもあり幸せなことでもあると、改めて痛感する。


居場所を失った今もはや私が何者であるかは宙に浮き、所属も肩書きも一切無く、私は名前でしか定義されることのない存在になった。
それでも名前なんて記号は人の形を縁取るにはあまりに頼りなくて、つまるところ私はまたしても形を持たない存在になってしまった。輝く外枠を失ってしまった。今、私のイメージは身体をゆうにはみ出し、あちらこちらに散らばっている。何にも縛られないことは、自己が拡散して薄まってしまうことと同義だった。

 この前の夏に私は自分の二本の脚で立つことを思い出した。でも、それはこれまで組織におんぶにだっこになっていたことの証明でしかない。元々一人だったら自明の理のはずの、誰にでもわかるはずの簡単なことだ。と、組織を失った今、気づく。

 

縛られないということは、つまり自由だ。自由と同時に浮遊することでもある。浮遊しているということは、とても精神的コストがかかる状態だ。ここで自意識に支配されて周りが見えなくなるか、周りの目を気にしすぎて自分が消え失せるかはその人次第。でも、自意識と客観的視点をバランス良くもつことが至難の技であることは間違いない。
自意識と客観的視点のバランスを保ててやっと、人は大人になれるのではないかと思う。一人の人間として、二本の脚で立つ存在として社会に参画できるようになるのではないかと思う。

 

そんなことを思えば思うほど私は未熟だ。

凛とした女性になりたいのにarを買って、ちやほやされたいのに自分より美人の友達ばかりつくって、強くありたいのに頼れる人を捜してやっきになってしまう。

自分の欲望と行動が噛み合ない。

でも、それでもいいと思ってしまう自分がいる。甘えてしまう。だめだだめだと思っているのに評価されたり、親友がいたり、いいかんじの男性がいたり、「なんだ、これでも人生うまくいくじゃん」なんて思ってしまう。自分の芯なんてものを失えば、自分に嘘をつき続ければ、いくらでも人生を上手くまわすことができると知ってしまった。こんなことを続けていれば、最後に待つのは孤独だということを悟りながら。

 

最終的な孤独を避ける為に必要な「自分を持つ勇気」というのは、読んでないけど最近流行の「嫌われる勇気」と同じようなことなんじゃないか思う。全員から好かれようとすれば自己は薄まって「あなたしかいない!」みたいな大事にされ方はされなくなる。いくらでも代わりのいる存在になる。人によってはそれでもいいのかもしれない。インスタント食品みたいに、価値は感じられないけど生活には必要といえば必要みたいな存在であることが心底心地いい人もいるかもしれない。

でも、私は三ツ星フレンチでありたいのだ。なんならパリのエピキューレみたいに、前衛と伝統と優雅さと華やかさを兼ね備えた三ツ星フレンチでありたい。とっておきの存在でありたい。でも、でも、怖い。自分を出すことで人から逃げられるのが怖い。みんなから好かれたい。常に必要とされたい。ほんとうは、簡単には手の届かない高貴な女になりたいのに。そこまでする勇気がない。

 

こんなことを考えるのも、肩書きを失ったからだろう。後ろ盾がなくなった今、自分の見せ方を考えるのは自分しかいない。何にも定義されることのない自由が、自己責任の四文字を叩きつけてくる。

自分に対する責任から逃げることほど簡単なことはない。そう、人間万事塞翁が馬。なんとかなるだろう。でも、精神的に向上心のない者は馬鹿だ。常に努力して、泥臭くあがいて、人生を作品にしなければならないと、思うには思っている。

 

背中を震わせる浮遊感に負けてはいけない。安易に居場所を求めてはいけない。そうしなければ、向上はない。

光り輝く自分の縁取りを自分で作ること、それが今の目標であり、大人になろうとする私の使命だと思う。

 

理想は実現させるものよ、と、自分に言い聞かせる。

まだ、身体の中は喪失感でいっぱいだ。